ポストコロナの
マーケティングは
顧客主義から人間主義へ

【シリーズ】 両極化時代のデジタル戦略

急速なデジタル化の進展は、グローバル規模の情報流通を加速させ、情報は一気に民主化された。この傾向はコロナショックによってさらに加速し、企業におけるマーケティング活動の在り方を大きく変えようとしている。ウェブやSNSで顧客体験(CX)が一瞬にして拡散される現代社会においては、中途半端な商品やサービスはすぐにその本質を見抜かれてしまい、小手先のプロモーションで糊塗することは難しい。今こそプロモーション偏重型のマーケティングを脱し、自社の商品やサービスを通じて、より根源的な欲求を満たす体験を提供する新たなマーケティングを実践すべきではないだろうか。

宮下 剛 / デロイト トーマツ コンサルティング合同会社 パートナー Deloitte Digital Japan Lead

デジタルが生み出す「経験負債」

クリック一つで欲しい商品が自宅に届き、スマホがあれば映像や音楽などのコンテンツがいつでもどこでも楽しめる……。近年のデジタル・テクノロジーの進展は私たちの消費生活を一変させ、その変化のスピードは、コロナショックでさらに加速している。こうした変化は圧倒的な便利さと効率性をもたらした一方で、消費者のニーズから乖離したネガティブな影響も生み出している。

ネットで何か買うたびに山のように販促メールが届き、ブラウザーを開けば同じ広告がしつこく表示されることにへきえきした経験を持つ人は多いだろう。あるいは、無料期間に釣られて申し込んだ定額サービスが勝手に更新され、使ってもいないのに料金を徴収されて腹を立てたことはないだろうか。さらには、公言した覚えのない結婚や出産といったプライベートなライフイベントまで察知され、不快どころか不安を感じた人もいるかもしれない。

デジタル・テクノロジーの進展は、パーソナライズしたプロモーションを格段に容易にした。しかし、それに乗じて企業が安易に施策を打てば、消費者にとってはただの迷惑でしかない。デジタル化によるこのような「望まぬ経験の積み重ね」を、デロイト トーマツでは「経験負債」と呼んでいる。本来なら顧客価値と企業収益の双方を高められるはずのデータ活用が、逆に負債を延々と積み上げているとすれば、互いにとって大きな不幸といえよう。

コロナショックでデジタルシフトが進めば、経験負債の蓄積は今以上に進むだろう。すると消費者はますます不信感を募らせて企業との接点を減らし、データの提供を拒むようになる。そして、企業と消費者の断絶はさらに深まってゆく。こうした負債を返済し、前向きな関係を構築するためにも、今、マーケティングを巡る考え方のアップデートが求められているのである。

注目すべきは「顧客」ではなく「人間」

そこで提案したいのが、従来の「顧客」を対象としたマーケティングから、「人間」に対する解像度を上げたマーケティングへの転換だ。つまり、顧客体験(CX=Customer Experience)を重視する戦略から、人間体験(HX=Human Experience)を重視する戦略へシフトするのである。

マーケティングにおける顧客視点の重要性は、これまでもしつこいほど語られてきたが、潜在顧客から見込み客、新規顧客、既存顧客へと直線的に関係を引き上げていく一連のアプローチは、結局は「消費行動」にしか着目していないという意味で視野が狭かった。CXにこだわる限り、相手を「自社にお金を払ってくれる存在」としてしか見ていないという限界があるのだ。言うまでもないことだが、消費者は自社の顧客としてのみ存在しているわけではない。消費者が本当に求めているものが何かを的確に理解するためには、人間(Human)として丸ごとその存在に向き合わねばならないのである。

「C(Customer)からH(Human)へ」の転換が意味する方向性は2つある。ひとつは上記のように消費者一人一人の体験の範囲をより広く捉えること。つまり、消費が直接関与しない部分も含めて、ホリスティック(統合的)に対応する方向である。そしてもう1つは、マーケティングの対象そのものを拡大すること。つまり、顧客(Customer)だけでなく、自社の従業員(Employee)、ビジネスパートナー(Partner)、さらには地域や社会を含む全てのステークホルダーとの体験価値の最大化を目指す方向だ。

CX的な観点に立てば「自社が提供する商品・サービス」と「それを享受する顧客」の間の、購買行動を中心とした1対1の関係だけが問題だった。一方、HX的な観点ではあらゆるステークホルダーへの価値提供を目指すため、その射程は大きく広がる。HXが注目されている背景として、顧客の体験が多岐にわたり複雑化する中、従業員やパートナーが顧客に対して与える影響が極めて大きくなっていることも挙げられる。

では、人間としての経験とは何か。デロイトは、人間としての経験を定量化し、ポイントとなる価値観を抽出する研究を行った。この研究において、人間は根源的に「個人の目標達成(私)」「帰属意識(私たち)」「好奇心(未知)」「統制(既知)」という4つの価値観を志向することを発見した。そして、これらの相互作用によって「新しいことに挑戦する」「新しいことを学ぶ」「他者と共有する」「他者を思いやる」といったさらに4つの価値観が生まれることが分かった(図表)。企業は商品やサービスを通じて、これらの価値観や活動をサポートすることを目指すべきなのだ。

驚異の集客力を誇るFC今治の取り組み

熊見 成浩 / デロイト トーマツ コンサルティング合同会社 パートナー Deloitte Digital Japan Deputy Lead

ここで、あるサッカークラブの事例を紹介したい。愛媛県今治市に拠点を置き、「次世代のため、物の豊かさより心の豊かさを大切にする社会創りに貢献する。」を企業理念に掲げる「FC今治」だ。

同クラブは、2014年に元サッカー日本代表監督の岡田武史氏がオーナーとなり、2016年に「Jリーグ百年構想クラブ」の認定を受け、2020年には地域リーグである四国サッカーリーグからJ3に昇格。地域に愛されるクラブチームとしてサポーターを着々と増やし、今ではホーム試合の平均観客動員数が3000人を数えるまでになっている。約15万人という今治市の人口規模を考えれば驚くべき集客力だ(東京都の人口比率に置き換えると約30万人の集客数となる)。

実はこの成長の背景にも、CXからHXへのマーケティング戦略の転換がある。従来のCXの観点に立てば、試合により多くの観客を呼ぶことばかりに着目することになり、マーケティング施策も集客プロモーションに偏ったものになりがちだ。しかし、HX的な観点に立てばゴールが変わる。つまり、特定の試合の集客よりも、繰り返しスタジアムに足を運んでくれるファンを増やし、ファン同士のつながりを広げ、サポーターとしてチームを見守る長期的な関係構築を目指すことになる。価値観のコンパスでいえば「帰属意識(私たち)×好奇心(未知)」の醸成が重要になる。この認識を、選手やスタッフ、そしてビジネスパートナーにも共有し一丸となって施策を実行していくことで、この一試合に勝つか負けるか以上に、応援してくれるファンの心を動かすパフォーマンスや、感謝の思いを伝えるコミュニケーションを大切にするようになっていく。試合という一時的なエンターテインメントを提供するだけでなく、一人一人の人生の中にFC今治が存在できるポジションをしっかり確保し、広げていくこと。それがマーケティングの大きなテーマになっているのだ。

こうした取り組みのためには、従来のデモグラフィックなマーケティングデータよりも、より深く人間活動にフォーカスした高精細なデータが必要になる。デロイト トーマツは2019年からFC今治と共に観戦体験向上のプロジェクトに取り組んでおり、観戦体験にまつわるさまざまな行動の可視化や分析を行っている。そして、これらの知見にデジタル・テクノロジーを組み合わせ、価値ある提供体験の再設計に継続的に取り組んでいる。

明確なパーパスを基に本物の体験を提供する

ソーシャルディスタンスの確保を余儀なくされるポストコロナの世界においては、あらゆる領域でデジタル化が進む一方で、人と人との絆や、リアルな体験が持つ価値はこれまで以上に高まるだろう。それを理解しないまま、ビジネスをただリアルからデジタルに置き換えるだけでは、人間が根源的に希求する「人間らしさ」を切り捨てることになりかねず、ステークホルダーに提供できる価値が目減りしてしまう。今こそデジタルがもたらす効率性に人間らしさを接続し、HXの解像度を高めることで価値提供を増幅させる仕組みを構築することが重要なのだ。

前述の通り、ものがあふれ、情報も一瞬で世界中に広がる現代においては、消費者はたやすく多彩な商品やサービスを比較検討できる。新しい商品やサービスを試すのも、他にスイッチするのも簡単だ。こうした環境で選ばれるためには「本物の提供価値」を持っていることは最低条件であり、さらに「選ばれ続ける」ためには他の選択肢をりょうがする圧倒的な提供価値<Kill Value Proposition>が必要になる。もちろんそれは簡単なことではないが、その実現を目指すなら、CX(顧客<Customer>の体験)、EX(従業員<Employee>の体験)、PX(ビジネスパートナー<Partner>の体験)を足し合わせたHXを徹底的に追求する姿勢が欠かせない。

その際、最も重要なのが企業の存在意義(パーパス)を改めて明確にすることだ。パーパスとは、端的に言うと「なぜこの企業が存在するのか?」というシンプルな問いへの答えである。パーパスドリブンな企業は、顧客から長期的なロイヤルティーを得やすいだけでなく、競合の約3倍のスピードで成長を遂げるというデータすらある。多様なステークホルダーを統合的に取りまとめるHXの実現には、その根幹に社会的意義のある目的を掲げることで1つの方向に向かい、そして一人一人のステークホルダーに人間として誠実に向き合っていくことが重要になる。こうしたアプローチは、一見遠回りのようだが、顧客がより複雑化し、不確実性の高い時代において、持続的な成長のための最短ルートなのだ。

デロイト トーマツ グループ「2020 Global Marketing Trends」:
https://www2.deloitte.com/jp/ja/pages/technology/articles/dd/global-marketing-trends.html

※当記事は2020年9月7日にDIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー.netにて掲載された記事を、株式会社ダイヤモンド社の許諾を得て転載しております。

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