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ピープル・アナリティクス ~2030年における人材マネジメント~(前編)

“未来型”要員・人件費マネジメントのデザイン 第12回

本連載では人件費を考える上で重要な複数の観点から、どのように要員・人件費マネジメントに取り組むべきか、ストーリー形式で詳解していく。今回は、HRテクノロジーをテーマとして、今後この領域がどのように発展していくのかを展望しつつ、HRテクノロジーが進んだ世界における要員・人件費マネジメントの在り方を考察する。

2030年におけるピープル・アナリティクス

2030年4月12日(金)7時00分。いつもどおり起床し、パンを口に運ぶ風間が「今日の予定を確認」と声を発する。そうすると、壁面に貼られた極薄のテレビ画面に今日の予定が映し出された。今日は、営業二部との打ち合わせがあることを再確認した。風間は、人事部でピープル・アナリティクスを担当しており、その分析から得られた示唆を現場のマネジメントに活かしてもらうよう、各部門に報告して回っていた。風間は一度深呼吸し、打ち合わせに向けて気持ちを切り替えた。

【MEMO】ピープル・アナリティクスとは?

企業に蓄積されたさまざまなデータをヒトに着目して分析することで、人事施策の策定や、経営・人事に関する意思決定に活かす取り組み。
特に、個人に紐づく志向性や行動に関するデータ等を活用することで、個々人にフィットしたきめ細やかな打ち手を客観的なデータから策定することができる点が特長(例:退職予測とその抑制に向けた打ち手の検討、個人別の人材育成計画の策定、最適人材配置の検討など)。

2030年現在、Z社には、ピープル・アナリティクス専門のチームがある。全社課題・部門課題を解決するべく、各部門と連携しながら、人事課題の分析から施策策定・実行まで担っており、経営陣や各事業部門からの評価も高い。他社でも同様に、ピープル・アナリティクスを担う組織を設けることは一般的になったが、少なくとも社員数1500人ほどのZ社において、ピープル・アナリティクスのサービスが形になり、さらに社内で高い評価が得られることなど、検討を始めた2018年当時の風間には、想像もつかないことだった。

風間が自宅を出ると、ライドシェアサービスの自動運転車両が停まっている。自動運転車両の一般利用が始まり、価格も手頃なことから多くの会社員が利用するようになっている。自動運転車両に乗り、10年前のタクシーと同様に、「Z社まで。」と告げると、お決まりの確認音声が流れ、了承するとドアが閉まり、職場に向けて走りだした。

 

ピープル・アナリティクスを活用した退職予備軍の特定

2030年4月12日(金)8時50分。自動運転車両を降りた風間は、営業二部の会議室に到着し、早速ピープル・アナリティクスのシステムを立ち上げ、報告準備を整えた。風間は少し緊張している自分に気付き、一度深呼吸をした。
9時00分。時間どおりに、営業二部の部長である青山が会議室を訪れた。
「それで、今回は何を持ってきたんだ?」とあいさつもそぞろに青山は問い掛けた。
青山は昔気質(かたぎ)の人物で、いわゆる"感覚論者"である。部長の立場になってからも自身の感覚を重視しており、部下とも時間を掛けてコミュニケーションを取り、そこで得られた情報や認識を基にさまざまな取り組みを行って、実際に結果もついてきている。
そのため、直接のコミュニケーションを行わずに、データから示唆を得ようとするピープル・アナリティクスに対しては懐疑的な立場を取っている。ちょうど1年前、青山が営業二部の部長に登用された際に、風間は良かれと思いピープル・アナリティクスの分析データを持ち込んだものの、「俺の認識とは違う。そんな机上の施策を打っても効果は出ない」と一蹴されてしまった。
風間は「本日は、個人別退職確率のリストをお持ちしました。直近のデータを踏まえた予測によると、営業二部において近々退職が見込まれる人を確認したため、ご報告させていただきます」と青山に伝えた。
Z社は法人営業を中心とした販売会社であり、顧客の要望に応じて迅速かつタイムリーに対応することが求められる。ワーク・ライフ・バランスが叫ばれ始めた2010年代においてもその環境を変えることができず、退職率の高さに悩まされ続けていた。継続した取り組みを通じて一定の効果は得られたものの、2030年を迎えた現在も、退職率が比較的高い傾向に変わりはない。今日のように風間が各部門の退職者予測を行い、対応を検討するのも珍しいことではなかった。
風間はピープル・アナリティクスのシステムに向かって、「営業二部の社員リストを、退職確率順に表示」と告げた。すると、会議室の壁面に、営業二部の個人別退職確率が一覧で表示された[図表1]。


[図表1]個人別退職確率リスト

青山は個人別退職確率リストの上位者を見ると、眉間に皺(しわ)を寄せた。
「大嶋の退職率はどうして高いんだ? 彼とは打ち合わせで頻繁に顔を合わせているし、先月も飲み会で語り合ったばかりだが、キャリアアップを目指して、非常に前向きに取り組んでいる。何を根拠に言っているんだ?」と青山は鋭い視線を風間に向けた。
「直近数週間で、社内でのコミュニケーション量が著しく減っています。さらに、メールや会話を通したポジティブなやり取りも減っています」とメールや会話データを基にした分析結果を見せながら、風間は答えた。すると青山はいぶかしみながら「具体的にはどんなコミュニケーションが減っているんだ?」と問い掛けた。
「まず、営業二部以外の社員とのやり取りは80%減っています。また、部内では、直接のやり取りのある部長・チームメンバーについてはほとんど減っていませんが、他の社員とのやり取りは平均60%減っています。コミュニケーション量がここまで大きく減少することは、大嶋さんを含め当社社員にはなかなか見られることはありません。一方で、実際に退職した社員に絞ってみると、コミュニケーション量の大幅な減少は退職前に一般に見られる傾向です」と過去の分析結果も含めて風間は解説した。
「だが、先週大嶋と打ち合わせをしたときには、退職する素振りなんて見受けられなかった。中長期を見据えた営業計画について議論していたが、大嶋は前向きに議論を牽引していたぞ」と青山は自身の感覚との違いを伝えた。
風間は、メールや会話データを基にした感情分析結果を見ながら、「確かに、青山部長とのやり取りでは、大嶋さんはポジティブな表現を使うことが多いようです。しかし、他のメンバーとはそうしたやり取りがほとんど見られなくなっています」と答えた。
「また、先月後半から受発注管理システムの利用量も大幅に減っていますね。営業二部では、過去の顧客の受発注状況を確認した上で営業を行っていると思いますが、業務分担が変わらない中で受発注管理システムを触らなくなるのは不自然です。これらは当社における典型的な退職前の行動パターンに該当します」と風間は重ねた。青山は、大嶋が退職を考えている可能性を否定しきることができなかった。

 

Z社におけるピープル・アナリティクス環境の整備

Z社では、5年ほど前に導入したウェアラブルデバイスを用いて、全社員の行動データ・バイタルデータを収集・分析している。ウェアラブルデバイスにより、例えば、音声情報と位置情報からは、「誰と誰が」「どのような会話を(ポジティブ/ネガティブな表現がどの程度含まれるか、ストレス値が変化しているか)」「どの程度(頻度・時間)」しているかを解析することができるようになった。取り扱うデータの種類や量が増えたことで、人特有の経験則や感覚値をピープル・アナリティクスで再現できるようになっただけではなく、人の目では見きれない、または見落としがちな要素も含めた新たな気付きを多く提供できるようになっていた[図表2]。


[図表2]ピープル・アナリティクスでの活用データの広がり

ウェアラブルデバイスを用いたデータ収集に対しては、個人情報保護の観点から、当初は人事部内でも慎重論が根強かった。しかし、業容の拡大に伴い、仕事の内容・進め方もチームや個人単位で異なっていたことから、個々人の状況を把握し、会社として実施すべき打ち手を検討する上で、ウェアラブルデバイスによるデータ収集は大きな武器になると、風間は当時から確信していた。そのため、風間は人事部長の白鳥と議論を重ねた上で、役員層も含めた社内の理解を得るために奔走していたのが2024年のことである。最終的には、使途や利用者を限定した上で社員から個別同意を取得、さらに本人がデータ収集のオンオフを操作できるようにしたことで、2025年にようやく、ウェアラブルデバイス導入のめどが立ったのだった。
Z社では長期間にわたって、人事関連システムだけでなく、全社でさまざまなシステムのデータベースを共有する仕組みを整えてきた。これにより、ピープル・アナリティクスを行う際にも、「人事関連にとどまらない多様なデータ」を「リアルタイムで」活用することができるようになった。個人情報保護の観点から、特に人事関連データやウェアラブルデバイスで得られるデータを用いた分析は人事部が一括して担うことにしたため、経営企画部や営業部など、さまざまな部門から各種分析の依頼が風間に殺到しているのだった。
Z社では、ピープル・アナリティクスに着手した2018年当初から、退職率の改善に向けた分析を継続しており、多くの知見を蓄積していた。例えば、退職する意向を持つ社員は、他社員に迷惑を掛けないため、また、自身の次のステップに向けた活動に時間を割くためにも、新しい仕事をせず、手持ちの仕事を終わらせていく傾向がある。その一端として、社内での会話やメールを通したコミュニケーション量が減ること、またコミュニケーション内容としても、ネガティブな表現が目立つようになる傾向があること、さらには新規顧客の訪問件数や訪問から成約までの確度が低下することを突き止めており、他要素も加えることで、各社員の退職確率を予測することができるようになっていた。

 

退職の理由仮説と防止策の提案

「大嶋には、今後のさらなる成長を期待して営業体制の中核を担ってもらっている。先日の会話では、大嶋も仕事にやりがいを感じているようだった。仮に大嶋が退職を考えているとして、何が理由なのだろうか」と青山は風間に問い掛けた。
 風間は、大嶋が退職する際の理由仮説と、その対応策リストを出力して説明した。
「大嶋さんの退職理由としては、三つ考えられます。そのうち、最も確率が高い退職理由は、ワーク・ライフ・バランスに起因するものです」
 人事関連情報から、大嶋の家庭は共働きで、今年の4月から小学校に入学する双子がいることが分かっており、また、大嶋の自宅や小学校の近くには、学童施設等もないため、大嶋夫妻の負担が大きくなることが予想された。また、大嶋の所属する営業二部は、大規模な発注が期待される顧客を担当する部門であり、客先の都合で急きょ夜遅くまでの残業が発生するなど、業務量をコントロールしにくい傾向がある。実際、大嶋の就労時間は乱高下しており、特に直近の業務量が多い時期には、会話やメールにネガティブな表現が多く含まれていたことも確認できていた。
 風間は、他二つの退職理由の仮説を説明した上で話を続けた。
「大嶋さんが本当に退職を考えているのか、また、退職理由の仮説も当てはまっているのかは、私にも分かりません。ただ、同じ傾向が見られた社員の多くに退職意思があったことが、その後の調査によって明らかになっており、また実際に退職を食い止めてきた実績があります。今までの見方を変えて、一度、大嶋さんの状況を確認いただいたほうがよいと思います」
 青山は、これまでの大嶋とのやり取りとピープル・アナリティクスの結果を踏まえ、ワーク・ライフ・バランスが崩れてしまっている可能性は、確かにあり得ると考えていた。
「大嶋の退職可能性が否定できない以上、一度、大嶋とは直接話をしようと思う」
 そう語る青山に対して、風間は別の対応を薦めた。
「事前に高平さんに大嶋さんの状況を聞くのもよいと思います。高平さんは別チームではありますが、大嶋さんがコミュニケーション量を大幅に減らしている中で、2人の間ではほとんど減っていません。高平さんは、大嶋さんの良き理解者である可能性が高いです」
 青山は"腹を割って話せば分かる"と考えていたため、大嶋との直接のコミュニケーションこそが大事だと判断していた。しかし、大嶋は、青山とは10歳以上の年齢差があるミレニアル世代である。部長から直接呼び出しを受けること自体が、大嶋の警戒感を高め、本音を話さない可能性もある。実際、青山も、大嶋が本当のところ何を考えているのか、分からない節があることを認めていた。現場を直接知らないにもかかわらず、ピープル・アナリティクスでは人間関係を含めてそこまで分析できるものなのかと、青山は内心驚いていた。
「直接大嶋と話したほうが早いと思うが、素直に話してくれない可能性は確かにあるな」と、渋々ではあるが、まずは高平に話を聞くことに決めた。
 青山との打ち合わせを終えた風間は、掌(てのひら)の汗を拭いながら、ピープル・アナリティクスの効果をあらためて感じていた。

(後編へ続く)

 

著者:酒井雄平(デロイト トーマツ コンサルティング マネジャー)
松井和人(デロイト トーマツ コンサルティング マネジャー)

※上記の役職・内容等は、執筆時点のものとなります。
※本コラムは、労務行政研究所の許諾を得て、労政時報 jin-jour(ジンジュール)の記事(2018年10月30日掲載)を転載したものです。

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