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ビジネスエコノミクス基礎講座~エビデンスに基づく事業戦略~ 第3回

健康経営とノーベル経済学賞:プログラム効果測定・改善のために

第3回はアメリカのデロイト職員を対象に行われた健康プログラムの驚くべき結果と、そこで使用された今年のノーベル経済学賞受賞研究の知見と併せてご紹介します。健康プログラムの効果測定・改善に悩んでいらっしゃる方必読です。

I.はじめに

今年4月からわが国で関連法が施行された働き方改革。その中で企業が従業員の健康に配慮することによって、生産性向上を通じた経営改善に取り組む「健康経営」が注目されている。しかし、実際にはどのような取り組みによってどの程度の効果が得られたのか、明確に評価し、改善に繋げていくことは難しいとされている。

健康経営の効果測定・改善というテーマの下、最近、注目すべき実証的プログラムが行われた。対象となったのはデロイト ネットワークの米国オフィス職員602名。分析方法は後述するが、そこではノーベル経済学賞の知見が2つ活用されている。1つは今年の受賞対象となった研究で採用されたRCT(ランダム化比較試験)(※1)と呼ばれる手法、そしてもう1つは2017年の受賞対象で活用された行動経済学(ナッジ) (※2)ある。両知見を活用した結果、健康プログラムの効果がより改善され、その内容が今年9月世界6大医学誌の1つに数えられるJAMA Internal Medicine誌に掲載された。厳しい査読プロセスを経て同誌に掲載されたということは、本研究の結果が強力なエビデンスとして担保されたということである。本稿では、そのような一見困難な効果の検証・改善において、経済学の知見がどのように活用できるかについて簡単に紹介する。

※1) RCTを用いて貧困削減政策の有用性を実証的に検証した功績が対象となり、アビジット・バナジー氏、エステル・デュフロ氏、マイケル・クレマー氏に授与された。
※2) 人間の心理的不合理性を経済学理論に組み込んだ行動経済学の発展に貢献した功績が対象となり、リチャード・セイラー氏に授与された。ナッジとは、行動経済学を活用して人々に望ましい行動変容を誘発する仕組みのこと。

II.RCT(ランダム化比較試験)の役割

本プログラムは「STEP-UP(※3)」というその名の通り、1日当たりの歩数を増進させる(社会的)インセンティブを特定することを目的として、36週間の期間、ペンシルバニア大学の監修の下実施されたものである。被験者募集告知のメールを受け取ったデロイト ネットワーク職員の中から、参加意思を表明し、肥満指数であるBMI25以上、スマートフォンまたはタブレット端末を所持しているなどの複数の参加基準を満たした602名が参加した。(なぜスマートフォン所持が参加基準となったのだろうか。その答えは「ゲーミフィケーション」であるが、詳細は後述する。)そして602名を約150名ずつ4グループにランダムに割り当て、それぞれ異なる環境を付与し、効果の差を測定した。

※3) 正式名称はSocial incentives to Encourage Physical Activity and Understand Predictorsである。

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この「ランダムに割り当て」という部分が今年のノーベル経済学賞の研究で採用されたRCTの肝と言える。RCTとは種々の施策の効果を正確に測定するための標準的手法と理解されており、分析結果に係る強固なエビデンス(※4)を提供する手法である。その基本的な内容はとても単純で(※5)、被験者を施策の対象者と非対象者にランダムに振り分けることで、施策の効果だけを純粋に取り出そうというものである。元来は医学分野で薬効検証に用いられていたが、昨今では経済学にも応用され、店頭価格は税込と税抜のどちらが売れるかといったビジネスを対象にした研究も行われている。

※4) 正確には1次研究の中で最有力という意味で、2次研究を含めるとシステマティックレビューやメタアナリシスがより信頼性が高いとされる。
※5) 基本的には単純なRCTだが、600名をどのようにぴったり150名ずつにランダムに振り分けるのか、といった実施上の問題には専門的知見が必要とされる。

III.行動経済学におけるゲーミフィケーション

本プログラムでRCTという評価の枠組みを活用して測定したいことの1つは被験者各人を取り巻く「社会性」が健康プログラムに与える影響である。被験者のうち施策の対象となる3つのグループに対しては、それぞれ「競争」、「協力」、「サポート」という社会性を与えられ、さらに行動経済学の研究分野である「ナッジ」を応用し、ただ歩くだけのプログラムにゲーム要素を追加(ゲーミフィケーション)した。プログラム参加者は週初めに70ポイント付与され、各々が定めた目標歩数を達成できなかった日数毎に10ポイント減点されていく。そして週の終わりのポイント残高によってランク(ゴールド、プラチナ等5段階)が変動する。これらポイントやランクを基に競争や協力を行っていき、フィードバックがウェアラブルデバイスやスマートフォンアプリを通じて定期的に送られてくる。なお、比較のために施策の対象としないグループ(コントロールグループ)151名はそれぞれ個人的に目標歩数を目指して歩き、ウェアラブルデバイスで活動を記録するのみである。

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以上の内容で36週間プログラムを行った結果、最も歩数が増加したのは競争グループで、平均して1日当たり924歩増加していた。これはコントロールグループの76歩増加と比較すると約12倍の影響が出たこととなる。基本的に同じ健康プログラムであったとしても、行動経済学を活用した細部の設計がいかに大きなインパクトに繋がるかがわかる。

また、本プログラムは人々の心理を基に設計されているため、同じ被験者集団に対してはその他の健康習慣や、ひいてはビジネス上の行動変容を指標としたときにも一定程度同様の改善効果が期待される。見方を変えれば、行動経済学を活用することによって、健康プログラムから従業員の心理の癖を把握することが可能となり、より広い場面での制度設計のヒントを得られるということも付言しておきたい。

Ⅳ.ヘルスケアエコノミクス

エビデンス重視の意思決定の重要性が注目される中、ビジネスの現場では何らかの施策を行った後に、本当に効果があったかについて検証が求められることが多くなっている。上記の通り、ノーベル経済学賞などを通じて、アカデミズムの世界ではRCTが強力なエビデンスを提供してくれることは理解が進んでいるが、ビジネスの現場でも利用が進みつつあり、すでにIT業界では「ABテスト」の名で活用が一般的となっている。

行動経済学についても経済産業省で「ナッジユニット」が設置されるなど、2017年のノーベル賞受賞以来その有用性が周知された。上記のデロイト ネットワークのプログラムでも、紙面の都合上紹介し切れなかったが、「選択アーキテクチャ」「損失回避」「フレッシュスタート効果」等々の知見が活用されている。

最後に、健康経営に代表されるヘルスケア分野と経済学の関係は古くからあり、ヘルスケア経済学、医療経済学といった分野が確立されている。デロイトトーマツにおいてはこれら経済学の知見を活用することで、医療技術や疾病負担の金額評価および健康プログラムの費用対効果分析をはじめとする様々なサービスを提供しているので、ご参考とされたい。

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※本文中の意見や見解に関わる部分は私見であることをお断りする。

執筆者

デロイト トーマツ ファイナンシャルアドバイザリー合同会社
バリュエーション・モデリング・エコノミクスサービス
アナリスト 益田 拓

(2019.12.16)

※上記の社名・役職・内容等は、掲載日時点のものとなります。

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