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「非キャッシュレス」を巡る議論~キャッシュレス先進国では現金へのアクセス維持が課題に

リスクインテリジェンス メールマガジン vol.47

金融規制の動向(トレンド&トピックス)

有限責任監査法人トーマツ
リスク管理戦略センター
マネジャー
対木さおり


2019年はキャッシュレス元年といわれるほど、キャッシュレス決済の動向に注目が集まっている。キャッシュレス決済が、2019年10月から予定されている消費税率引き上げ対策の一環として消費者還元事業の対象となっていることに加え、クレジットカードやデビットカード、交通系プリペイドカード、さらにはQRコード決済など、選択肢が急速に拡大していることが背景にある。

こうした中、キャッシュレス化で先んじている欧米諸国の制度や動向の分析では、キャッシュレス決済のプラスの側面に焦点が当たることが多い。一方で、英国や米国では、「非キャッシュレス」(現金へのアクセス維持)を巡る議論が繰り広げられていることは意外と知られていない。例えば、英国では、近年、決済手段としての現金の利用が減少傾向にあり、現金へのアクセスが失われる可能性や、さらには現金決済が受容されなくなる可能性に懸念が高まりつつある。また、米国では、マサチューセッツ州やニュージャージー州で現金決済を認めない店舗が禁止されており、今後ワシントンDCやニューヨーク市なども同様の規制導入を検討中だ。

これらの状況は、今後決済のキャッシュレス化が進んだ将来の制度や規制面での新たな課題を提起している。英国では将来の現金へのアクセスを検証する部会(パネル)として「現金へのアクセスの見直し(Access to Cash Review: ACR)」が設置され、2019年3月に最終報告書を公表した。この報告書が提起しているのが、①現金アクセスの維持の必要性と、②英国が依然として完全にキャッシュレス化する段階には至っていないとの認識に基づく、現金インフラの維持に向けた課題と方策の2つである。報告書の論点を整理してみよう。

第一に、現金アクセスの維持が必要な理由は以下のように整理されている。デジタル決済が急速に普及したことにより、2017年までの過去10年間で、現金の利用割合は、全決済の63%から34%まで減少。将来的には全取引の1割程度まで減少する可能性が示唆される。こうした中、同報告書では、英国人口の約17%(800万人超の成人)がキャッシュレス社会への対応に困窮すると想定している。さらに調査結果に基づき、現金依存度が高い要因は、高齢ではなく、貧困(所得)であると指摘。列挙されている現金需要の要因については、地方店舗や特定サービスでのデジタル決済の不足に加え、健康上の課題や過度な支払や負債を抱えるリスク、物理的に他者に購入を委ねているケースといった個別の解決策を要するものまで幅広く、解決は容易ではないと見込まれる。

第二に、課題と方策についても、深い分析がなされている。現在、英国ではATM数の減少が問題となっているが、問題はそれだけにとどまらない。スウェーデンや中国から得られた知見に鑑みると、業者や小売店の現金に対する受容度が、現金消滅への誘因となっていると指摘。つまり、業者や小売店が現金の受容を拒む最大の要因は、現金の取扱いに係る取引コストの上昇(現金インフラの単位当たりコストが上昇)であり、換言すれば、現金の流通に関わる経済性の問題が鍵を握っているとの分析が展開されている。

こうした認識のもと、現金の存続のためには、経済モデルの再考が必要という指摘がこの報告書の最も重要な点である。英国の現金インフラは、キャッシュレス化の進展により急速に持続困難となり、多額の固定費(英国では年間50億ポンドと推計)を必要とする一方で、得られる収入は減少すると見込まれる。民間主体が、現金インフラコストを負担している以上、このままでは消費者がこのコストを負担することになる。そのような事態の解決方法として、すべての人にとってデジタル支払いが選択肢となるように目指すとともに、現金インフラを国家的なインフラの中核ととらえ、銀行や規制当局が消費者に現金アクセスの「保証」を提供するなどの提案がなされている。

上記の問題は、英国当局の共通課題となりつつある。英国FCA(金融行為規制機構)の子会社として決済機関を所管するPSR(決済システム規制当局)も、最新の年次計画・予算の主要課題の一つとして、「ATMネットワークと現金へのアクセス」を設定。①無料で利用可能なATMの広範囲の分布を維持する取組みのモニタリングの継続、②現金へのアクセスを巡る議論や将来的な取組みにおける主体的役割の遂行、を掲げるほどの力の入れようである。

いうまでもなく、現金決済からキャッシュレス決済への転換の動きは、国際的に大きな潮流になっている。日本でも、ある時点からキャッシュレス決済が爆発的に普及する可能性も十分にあろう。しかし、その局面に至っては、上記のようなキャッシュレスに伴う負の側面も看過できなくなると予想される。英国のような現金インフラに対する政策面での対応や、現金インフラ維持に向けた規模の経済性の問題、さらには、冒頭で触れた米国のようなキャッシュレス店舗の禁止などの動きも含め、各国の事例は注目に値する。中長期的には社会的弱者の保護や包摂という配慮を踏まえ、非キャッシュレス対策が求められる状況を今から念頭に置いておく必要があろう。

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執筆者

対木さおり/Saori Tsuiki 
有限責任監査法人トーマツ リスク管理戦略センター マネジャー

財務省入省後、大臣官房にて経済・政策分析業務、関東信越国税局(国税調査官)、理財局総務課・国債課にて、国有財産・債務管理や国債発行政策策定に従事。米国コロンビア大学にて修士号(MPA)取得(IMFインターン等を経験)、その後大手シンクタンクにて、政策分析・経済予測、関連調査・コンサルティング業務を担当。

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