芥川賞から考える、出版バリアフリーの未来 ブックマークが追加されました
市川沙央さんの著書「ハンチバック」が第169回芥川賞(2023年上半期)に決定した1。市川さんは重度の障がいがありながらも小説を書き続け、純文学の大賞受賞を果たすに至っている。
「ハンチバック」の内容についていうと、「私は紙の本を憎んでいた。目が見えること、本が持てること、ページがめくれること、読書姿勢が保てること、書店へ自由に買いに行けること」2といった描写は、原稿を書く際にはタブレット端末を操作して親指で入力し、ふだんの生活は車いすで移動する市川さんならではの視点である。書店に的を絞ると、たしかに建築物として奥深い味わいがあるものの、身体のどこかに不自由がある人を考慮して設計されていない店は存在する。エレベータを利用できても本棚と本棚の間がせまく、車いすで移動できないレイアウトの書店もある。
一方で、電子書籍はどうか。こちらもよく観察してみると、障がいのあることに対して配慮が行き届いていない点がある。たとえば、リフロー型ではない、版面をそのままスキャンした電子書籍。これらは、目の不自由な人のための読み上げ機能が、必ずしもうまく作動しない可能性がある。なぜなら読み上げソフトは、線形に配置されたテキストデータを読み上げることが得意だからである。また、電子書籍をスワイプ動作3でめくることは、上肢に障がいのある人にとっては困難をともなう場合も想定される(もちろん、紙の書籍でページをめくることにも共通する課題である)。
以上のように、出版業界には障がいのある人にとっての障壁が、アナログでもデジタルでもたくさん残っている。一方で、出版業界にとってバリアを取り除くアイデアも、実はたくさんある。
電子書籍であれば、たとえば顔認識技術を使って目線の動きでめくることのできる本の数を増やす、あるいは、複雑なレイアウトの本であっても文字はすべてテキストデータとして埋め込むように改善する、などの施策があげられる。これらは技術的なブレイクスルーをすでに突破しているので、あとは普及を待つ段階である。
また、紙で書籍を売りたい出版社であれば、音声読み上げデータを書籍に同梱したり、点字と併記したりする。書店であれば、移動が困難な人に対して大型車に本棚を積んで回る(実際に手にとって選ぶという体験は、紙の本ならではの体験である)。障がいのある人それぞれのきめ細かなニーズに応えるためには、個人情報の取り扱いに細心の注意を払うことを前提として、データアナリティクスの力を借りることもできるであろう。
もちろん、出版業界全体で取り組むとなれば金銭的なコストだけでなく、サプライチェーン全体の最適化や、出版業にかかわる人々の意識の変革も必要となり、大変な労力をともなうことは想像に難くない。
しかし、バリアフリー化の取り組みにいち早く着手することによって、その組織は障がいのために読書をあきらめていた人たちという、新しい読者を獲得することができる。これまで出版市場から取り残されていたそうした読者の数は、おそらく数百万人という規模で日本に存在するはずだ。
それだけでなく、出版業界が社会全体にやさしくなれば、テレビやインターネット、ゲームだけでなく、書籍もコンテンツの選択肢として、一般の消費者の目に魅力的に映るにちがいない。
冒頭に挙げた市川沙央さんは、芥川賞受賞のスピーチで「2023年にもなって私が芥川賞を受賞できたこと」の意味を問うていると、複数のニュースで報道された。たしかに日本の出版業界のバリアフリー化は、一足遅かったかもしれない。しかし、いま障がいの社会モデル4を受け入れ、障がいのある人もない人もひとしく活字文化を享受できる環境を作ることは、目下の厳しい出版不況を脱するきっかけになりうるのである。
注:
1公益財団法人日本文学振興会、芥川賞受賞発表のWebページを参照のこと。
2『ハンチバック』(市川沙央・著、文藝春秋 2023年)p.27より引用
3スワイプ動作……スマートフォンやタブレット等の画面を指でなぞって遷移させる動作。書籍をめくる動作を疑似的に再現することにも使われる。
4障がいの社会モデル……障がいのある人本人ではなく、社会の側に障がいのある人を障がい者たらしめている原因がある、とする考え方。現在の日本の障がい者関連の政令や施策の多くは、障がいの社会モデルに基づいてなされている。