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第22回 企業価値とのれん(その2)

月刊誌『会計情報』2021年12月号

国際会計基準(IFRS)―つくり手の狙いと監査

前 国際会計基準審議会(IASB)理事 鶯地 隆継

企業買収の目的

日本の伝統的な企業の成長戦略は、最近まで、自社内の人材や技術を発展させていくオーガニックグロースと呼ばれる成長戦略が中心であった。これには日本的な雇用環境も大きく影響している。日本では、多くの経営者は従業員の雇用を守ることを最優先事項と心得え、企業が業績不振に陥っても、従業員を解雇するようなことはまず行わないので、社員には組織第一の意識が強くなり、メンバーシップを重要視する気風が生まれる。このため日本企業では産業構造への変化に対して、まずは、自社の従業員や経営資源を有効活用し、組織が存続することを第一優先とすることが多かった。

しかしながら、90年代後半頃から国際的な競争が熾烈になるにつれて、技術革新や、産業構造や、市場の変化のスピードが速くなり、オーガニックグロースだけでは生き残ることが難しくなってきた。このため日本においても企業買収による成長を試みる企業が増えてきている。では、伝統的なオーガニックグロースを重んじていた企業が企業買収による成長を試みるのにはどのような戦略的目的があるのであろうか。企業買収の目的はさまざまであり、企業のおかれた状況や経緯によって異なるが、いずれの場合においても共通して重要だと考えられるのは以下の2つである。

① 成長のスピード
② 効率化とシナジー

買収目的の多くは顧客関係の獲得による市場シェアの拡大や事業領域の拡大であったり、新しい技術やノウハウの獲得であったりすると言われるが、必ずしも買収をしなくても時間をかけてこつこつと顧客や市場の開拓をしていけば、その目的は達成できるかもしれない。また、新しい技術やノウハウといったものが他社に先行されても、自社開発で追いつけないものでもない。かつての日本企業は他社が新製品を出せば、後発企業がそれを徹底的に研究し、よりすぐれた製品を開発して市場に送り出した。また産業構造の変化に対しても、優秀な人材を新規事業に振り向け、全く分野の違うビジネスを一から学んで、企業経営の多角化を成し遂げ、組織の生き残りを実現してきた。しかし、オーガニックグロースではどうしても実現できないのが成長のスピードである。競争が激化し、市場環境の変化のスピードが速くなるにつれて、自社のリソースをこつこつ拡大していくだけでは、競争相手のスピードに追い付けず、市場拡大どころか逆に市場から淘汰されてしまう。現在のグローバルな競争環境においては、自社のリソースだけで市場開拓をしたり、新規事業を立ち上げたり、新たな技術開発をおこなうような時間的余裕はなくなってきている。企業は「時間を買う」買収による成長を積極的に行わなければ生き残れなくなってきている。

もうひとつ、重要なのが効率化である。買収を行う事で規模の利益が得られ、効率化が期待できる。2つの会社で似たような組織がそれぞれに存在する場合、企業買収によって1つの組織が2社分の規模をカバーできるようになり、効率があがる。産業分野全体の中で重複していた業務が一本化されることは、消費者を含む経済全体にとってのメリットでもある。またお互いの得意分野と不得意分野をカバーしあうことにより、1たす1が2以上の効果を生み出す、所謂シナジー効果を発揮する可能性がある。このようなシナジー効果は経営資源のミスマッチを改善し、経営資源のベストマッチを実現することによって発揮される。

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資産の取得か、事業の取得か

以上述べたような成長戦略は企業買収によってしか達成できないことが多い。なお、企業全体を買収する際には、一般的には企業買収というが、一部の事業のみを取得することもある。オーガニックグロースによる成長戦略において、事業の取得ではなく資産の取得によって同様の効果を目指す場合もあるが、資産の取得だけでは限界がある。資産の取得と事業の取得はその性質が根本的に異なると考えられている。というのは企業買収とは企業価値そのものを買う行為だからである。したがって、企業買収に伴って支配を獲得することになる資産の全ての価値と、それ以上の「なにか」も併せて取得することになり、その「なにか」がのれんである。このため、IFRS第3号「企業結合」では「事業(business)」を厳格に定義し、取得企業が1つ又は複数の事業に対する支配を獲得する取引又はその他の事象を企業結合と呼び、その場合にIFRS第3号を適用する。したがって、事業の定義が非常に重要になる。IFRS第3号では事業を「顧客への財又はサービスの提供、投資収益(配当又は利息など)の生成あるいは通常の活動からの他の収益の生成の目的で実施し管理することができる、活動と資産の統合された組合せ(An integrated set of activities and assets)」(付録A 用語の定義)と定義している。つまり事業とは、「組合せ」なのである。

この定義の中「組合せ」ということは大変大きな意味を持つ。何をもって「組合せ」となり、何をもって「組合せ」とならないのかは解釈が難しい。なおこの事業の定義はIFRSとUS-GAAPでも若干の相違があって、実務上はたびたび問題になることがあった。2018年にIASBとFASBは協議をして定義の相違を縮小したが、完全に同一とすることは出来なかった。組合せとならない独立した資産を取得したのか、それとも組合せである事業を取得したのかの違いはそれほど微妙なものであり、神経質な判断が求められる。というのも、ほんのわずかな違いによって、会計処理が大きく異なるからである。会計処理が大きく異なるのは、資産の取得と事業の取得とではそれだけ経済的な意味が異なるからである。

取引が事業の取得ではなく、資産の取得と判断された場合は、取得した資産はそれぞれの会計基準に従って処理される。たとえば、取得したものが有形固定資産であれば、取得原価で計上される。しかし、取得したものが事業であったならば、企業結合会計が適用され、より複雑な工程を要する会計処理となる。具体的には、取得企業は、のれんとは区別して、取得した識別可能な資産、引き受けた負債及び被取得企業のすべての非支配持分を認識しなければならない。このことは、取得した事業の中身を精査して、認識すべき資産・負債とのれんとを区別するという大作業を要することを意味する。

 

取得原価の配分(PPA)

取得した事業の中身を精査して、認識すべき資産・負債とのれんとを区別するという大作業はPPAと呼ばれる。PPAとはPurchase Price Allocationの略で、日本語では取得原価の配分ということであるが、PPAという用語は日本語としてそのまま使用されることが多い。ここでは、取得原価を被取得企業の識別可能な資産及び負債の企業結合日時点の公正価値を基礎として、当該資産及び負債に配分する。そして識別可能な資産の中には無形資産も含まれる。この為、PPAの作業にはさまざまな判断が必要となる。

PPAの作業で最初に行うのは、公正価値が比較的算定しやすい有形固定資産や引き継いだ負債を公正価値評価し、それらを配分することである。そして配分した後の残余が無形資産ないしはのれんである。IFRS第3号は、被取得企業の識別可能な無形資産をのれんと区分して認識することを取得企業に要求している。しかし、識別可能な無形資産とのれんとの区別は、PPAの作業の中で最も判断が難しいものである。

識別可能な無形資産の条件は2つある。1つの条件は、その無形資産が分離可能であるどうか(分離可能規準)。そしてもう1つの条件は、その無形資産が契約やその他の法的権利から生じているものであるか(契約法律規準)である。識別可能な無形資産と判定するに当たって、この2つの条件を両方とも満たす必要はなく、いずれかの条件を満たせば識別可能と判断される。

たとえば、買収の主要な目的となることが多い顧客関係は、契約に基づくものもあれば、明示的な契約関係に基づかないことも多い。前者は契約法律基準を満たすので、識別可能な無形資産となる。後者は通常契約法律基準を満たさないので、そのような顧客関係は識別可能な無形資産とはならないことが多い。ただし、それはその顧客関係が分離可能基準を満たしていない場合である。分離可能基準とは、被取得企業から分離又は分割して、第三者に売却、移転、ライセンス供与、賃貸又は交換することができることをいう。仮に取得企業にそのような意図がなくても、取得企業がライセンス供与することが可能であろうと見込まれる場合は、分離可能性規準を満たす。このようなことから、顧客関係が契約法律基準を満たさない場合でも、分離可能規準を満たす場合がある。例えば、顧客及び申込者のリストが、頻繁にライセンス供与されているような場合は、分離可能性規準を満たすと考えられる。しかし、守秘義務又はその他の取決めにより、企業が顧客の情報を売却、リース又は交換することを禁止されている場合には、企業結合で取得した顧客リストは分離可能性規準を満たさない。また、顧客関係が契約に基づくのか、そうでないのかの判断も難しい。顧客との間に明示的な契約書がなくても、実質的に法的な契約関係が成立しているとみなされる場合もある。このような判断は個別具体的に検証してみなければ判断ができない。このように識別可能な無形資産の区分は多くの判断を要する難しい作業である。

さらに、無形資産は顧客関係だけではなく、技術、ノウハウ、ブランド、販売ネットワークなど、さまざまな種類がある。これらの多くは企業買収がなければ、もともとは被取得企業の財務諸表では自己創設無形資産として資産に計上されていなかったものである。それが企業買収という取引を通すと、財務諸表で認識し、適正な価格で配分されることが求められる。しかし実際の取引においては、多くの場合には、個別の識別可能な資産の公正価値を積み上げて買収価格を決めるというほどのきめ細かい作業をできないケースも多い。また買収を行うに当たって、取得企業は適正な買収価格を事前に算出はしているが、実際は買収の競争相手もあり、予定価格とは異なる金額での買収になることも頻繁にある。また、企業買収では個別の資産を取得している訳ではなく、事業という「組合せ」を取得しているので、個別の資産に取得価格を付与して配分することは、ある意味フィクションである。しかしながら、取得時点の公正価値が信頼性を持って測定できるのであれば、それにはある程度の情報価値はあるであろう。ただし、被取得企業の自己創設無形資産であったもので、必ずしも市場での取引が活発でない個別性の高いものについて、何らかの取得価格を付与して財務諸表に計上することに、どれほどの情報価値があるのかについては、今後検証が必要である。

以 上

本記事に関する留意事項

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