地方がんセンターが担う新たな役割~栃木キャンサーバイオバンクのチャレンジ~
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デロイト トーマツ グループでは未来のヘルスケア実現を見据えた取り組みを行っています。今回は栃木県立がんセンターが設立した栃木キャンサーバイオバンクについて院長の尾澤 巌先生にインタビューを行い、腫瘍マーカーの開発やがんパネル検査等個別化医療の進展に与える影響だけでなく、病院経営の側面やヘルスケア業界とのシナジーまで幅広く伺いました。聞き手は、有限責任監査法人トーマツ Deloitte Tohmatsu HealthCare パートナー渡辺 典之、シニアスタッフ 湯澤 あや、スタッフ 中村 篤大が担当しました。
渡辺:本日はお忙しい中お時間を頂き有難うございます。今回は栃木県立がんセンターが設立された地方発バイオバンクである、栃木キャンサーバイオバンクについてお話を伺いたいと思っております。地方発バイオバンクとして大規模バイオバンクとは異なるニーズに対応することで、がん研究の進展や治療法・検査法の開発に寄与されると考えております。
栃木キャンサーバイオバンク設立の経緯
渡辺:まず栃木キャンサーバイオバンクを設立するに至った経緯についてお聞かせください。
尾澤:「骨軟部腫瘍科」と「頭頸部腫瘍科」では、希少がんを扱うケースが多いんです。栃木県内に頭頸部腫瘍を診療している病院はありますが、「骨軟部腫瘍」を扱う病院はありません。そこで2018年4月1日から、「骨軟部腫瘍」がご専門である菊田先生に赴任していただいております。「頭頸部」に関しては2020年2月1日から診療が始まっていて、今はほぼ全ての診療科が揃っています。
今は日本人の2人に1人ががんに罹患する状況ですから、一般の病院でもがん治療が可能です。しかし「骨軟部腫瘍科」や「頭頸部腫瘍科」のような希少がんは、そういった病院では治療できません。希少がんに罹患する確率は、10万人に6人以下。患者さんの数が少ないため、臨床試験も満足にできないからです。そこで、今後は希少がんを中心に診療を広げていこうと考えまして、希少がんセンターを作ったという経緯がありました。
「骨軟部腫瘍科」など希少がんに罹患している患者さんを治癒に導いていくには、患者さんから組織や血液を提供していただき、それをアカデミアや他のがんセンター、製薬企業に提供し、研究していただく必要があります。しかし、研究のための検体がない。そこで、検体を提供する施設になろうと考え、「バイオバンクをやろう」ということになりました。
バイオバンクとは、生物学的研究や疾患研究のために必要な体液や組織などの生体試料や情報を収集し、頒布する事業や施設のこと。日本にはさまざまなバイオバンクが存在しています。しかし、一部のバイオバンクでは、利用者に試料を提供するに当たって、共同研究のみ認可するというような厳しい利用制限を課しております。そうすると、条件をクリアできない製薬会社や企業はバイオバンクから検体がもらえないことになります。これでは、研究は進みません。海外のバイオバンクは、そういう条件はほとんどありません。海外の例に準じて、栃木キャンサーバイオバンクは少しでも利用の垣根を下げようと考えました。具体的には、共同研究でなくとも試料の頒布が可能であり、また審査手続きもオンライン上で可能になっています。
バイオバンクを運営していくにあたって、相当な運営費が必要になります。他のバイオバンクは科研費等の公的研究費などを資金に運営しているのですが、当センターではそれができません。どうしたらいいだろうと考えたとき、これは企業さんと一緒になってやる方がいいんじゃないかと考えました。
渡辺:栃木県立がんセンターは平成28年から独法化され、令和4年度からは第二期中期計画に入りますが、バイオバンク設立に対して栃木県立がんセンターの地方独立行政法人化はどのような影響を与えましたか。
尾澤:基本的に、県立病院は企業と一緒にやるということはできないと思います。ですから、今回の件に関しては、独立行政法人になったから実現できたということになります。独立行政法人になったことによって、フットワークが軽くなり、こういった活動もできるようになったと考えています。
試料頒布の状況と、頒布可能な試料・情報
渡辺:次に栃木キャンサーバイオバンクの現状や、最新動向についてお伺いできますか。
尾澤:栃木キャンサーバイオバンクは、令和3年4月にスタートしました。3月に臨床研究審査委員会を通し、まずは「骨軟部腫瘍科」と「肝胆膵外科」から始めました。「骨軟部腫瘍科」はもともとバイオバンクセンター長である菊田先生が担当し、「肝胆膵外科」は、私が担当しています。2つの診療科が始めたことで、他の科もどんどん「うちもやろう」という話が出てきました。結局10月末には全診療科が始めたというところです。
これまで同意書を取る流れが明確でなかったこともあり、現在の実績については正直まだそんなに多くはありません。患者さんの数に関しては累計で83 件。現在払い出している検体数が4件です。「組織や血液を提供してもらいたい」という企業からの頒布の問い合わせは、現在26件あります。
中村:栃木キャンサーバイオバンクで頒布される検体やその処理方法には様々な種類がありますが、特に希望が多いものはありますか。
尾澤:栃木キャンサーバイオバンクでは、凍結して保存した試料もありますが、それについての問い合わせはあまりありません。これまで凍結保存もやってきていましたが、そちらはあまりニーズがないということも、最近わかってきました。今よく動いているのは、「○○の患者さんが来たら血漿を取って提供していただきたい」という、いわゆるオンデマンドのリクエストです。今はオンデマンドの合計210症例ぐらいの希望が来ているので、それに対して患者さんに説明し、血漿をとらせていただいているという状況です。
中村:今後は保管検体ではなく、オンデマンド採取により注力されるということでしょうか。
尾澤:未来の研究のために試料を長期保管することはバイオバンクの存在意義の一つですから、検体の保管をやめることはありません。ですがバイオバンクを長期間存続させていくためには収益化が不可欠です。外部からの利用を促進し、頒布手数料を頂く必要がある。判断が難しいところですが、需要に応じてリソースの配分を調整していく必要があると考えています。
検体以外では、治療歴等の情報も提供しています。電子カルテから取得した診療情報からニーズに合わせて情報を抽出し匿名化加工するので、利用者の研究に必要なデータを不足なく提供できると考えています。
渡辺:遺伝情報を頒布される予定はありますか。
尾澤:現時点ではゲノム解析や、遺伝情報の頒布を行う予定はありません。ゲノム解析には大きな資金が必要であり、国の事業として行われるべきだと思います。
バイオバンクの設立が栃木県立がんセンターに与えた影響
渡辺:栃木キャンサーバイオバンクを設立したことで、栃木県立がんセンターにはどのような影響がありましたか。
尾澤:研究所としてのあり方を新たに考えていく必要があります。今はほとんどゲノム中心の研究になっていますが、ゲノムだけでは完全に解決できないところが多くある。例えば、国立がん研究センターのNCC オンコパネルやエキスパートパネルを使えば「ゲノムの変異があるときにはこういう薬が効きます」ということがわかるわけですが、その抗がん剤が、実際にその患者さんに対して効くかどうかはわかりません。そういうところをはっきりさせていくのが個別化医療じゃないかと思っています。そのあたりを、来年度から研究所の方でやっていこうと考えています。そういうことは大学の研究所でやっていませんし、もちろん一般病院にはやれないことですから、がんセンターがやっていくべきことのひとつなのではないかと考えています。
研究所ではそういった基礎研究をやっていますが、それはいわゆる大学の基礎研究とは異なり、臨床医が研究所の先生と密接にミーティングしながら臨床に役立つ研究を中心にやっていくのが地方がんセンターの研究所の役割ではないかと思いますね。臨床の患者さんと共に進めていく研究ができればいいかなと思っているところです。
キャンサーバイオバンクは、非常に重要な存在です。病院で検体を取って、それに臨床の情報をつけてキャンサーバイオバンクに送り、企業に頒布するなり、共同研究を行うなりするわけですが、そこで得られた知見を臨床にフィードバックできます。これが一番重要で、キャンサーバイオバンクが目指しているところでもあります。
栃木キャンサーバイオバンクの運営
渡辺:企業からの申し込みは、直接、栃木キャンサーバイオバンクの方に問い合わせがあるのですか。
尾澤:いえ、違います。そこは切り分けをしていて、うちは問い合わせに関与しないことになっています。問い合わせに関してはビジコムジャパンさんのホームページの中に、問い合わせ窓口が用意されていて、そこからうちに連絡が来るという形になっています。
渡辺:バイオバンクが院内業務や病院経営に与えた影響についてはいかがでしょうか。
尾澤:さきほどお話しした210件については、血漿を提供しています。血漿をとるということは、つまり採血をするということになります。基本的には、なんらかの検査のために患者さんから採血したときの血液の残りを提供するという形にしていて、そのためだけに採血するということはありません。採血する際は、患者さんに「血液を少し余分にいただきますよ」と事前に説明し、了解を得られた場合のみとなります。
ということで、病院の業務にはほとんど影響がありません。ただ、採血した血液を処理する必要があり、それらについては、ビジコムジャパンさんから派遣していただいているスタッフが血液の処理を行っています。また、組織を取る場合もビジコムジャパンさんから派遣された臨床検査技師が行っています。
あと、患者さんに同意書の説明などをしなければならないのですが、やってみるとだいたい10分ぐらいかかります。それが現場の臨床医にとってはかなりの負担になります。これも説明用の動画を作成してもらい、患者さんが順番を待っている間にビデオを見ていただくようにしました。その後、ビジコムジャパンさんが派遣した方が説明するという手順になっています。病院業務に関わっての影響としてはそんなところでしょう。
希少がん治療の将来の展望
渡辺:今後のバイオバンクと医学界・ヘルスケア業界とのコラボレーションやシナジーについてはどうお考えでしょうか。
尾澤:患者さんの試料がなければ、研究活動は進みません。そのため、臨床としてはやはり試料を提供すること、それも、できれば臨床情報をつけた試料のほうがいい。そういった試料を提供することによって、企業さんが自由に研究できる、企業の中でうまく利用できるような環境を作っていくことが重要だと思っています。
また、基礎研究の成果を新しい診断や治療法の開発につなげるためには、その橋渡しとなる研究が必要となります。これを「トランスレーショナルリサーチ」といいます。病院がバイオバンクを運営することによって、このトランスレーショナルリサーチを実現していきたいと思っています。検体を出して、いろんな企業、大学、アカデミアでさまざまな研究を進めていただき、それで得られた知見を臨床にフィードバックするとき、人と人との繋がりが生まれます。例えば製薬会社さんに対して「うちからこういう検体をどんどん出すので、そこで得られた知見に関してはうちで臨床試験、実験をやりますので結果を患者さんに返してあげましょう。」というようなことですね。そういったコラボレーションを、今後やっていきたいと考えています。それを実行するには臨床試験が重要なキーとなりますので、うちの病院としては、現在も存在している臨床試験と治験を管理する臨床試験管理センターが益々重要となりますので一つの重要事業として推し進めていきたいと考えています。
中村:先生の立場から患者さんに期待すること、意識変容や行動変容も含めて何か感じられることはありますでしょうか。
尾澤:がん患者さんの多くは自分のがんの状態に興味を持ちますが、なかには自分だけではなく、家族の人が同じようながんになった時に、きちんと治るようなものを探したいという考え方の人もいます。「私が他界したら病理解剖してください。次の世代に私と同じ苦しみを味わわないようにしてもらいたい」ということをお願いされる患者さんもいます。そういった意味で言えば、バイオバンクに検体を提出しても、自分にはその恩恵は返ってこない可能性が高い。しかし、これからの患者さんを拾い上げるという、非常に意味のある行動です。ですから、そういう意味でご協力いただくのはとてもありがたいですし、がん専門医は、そういったことを詳しく説明してご協力していただく必要がある。僕の経験では、これまでバイオバンクのことを説明したあと「嫌だ」と言った人は一人もいませんでした。
中村:個別化医療に関して、薬効だけではなく副作用の軽減というような側面もあるかと思います。そういったことを研究するにあたって、その患者さんの臨床情報を蓄積していくというところが重要になりますか。
尾澤:副作用のような有害事象の研究はとても難しいんです。例えばAという抗がん剤を使ったときに白血球が下がる作用があって、それはどういう遺伝子が関連して起こっているのかということを調べようとすると、なかなかうまくいかない。患者さんによって有害事象が出る人もいれば出ない人もいる。それが何らかの遺伝子で起こっている可能性は考えられますが、それを突き止める研究を進めようとすると、検体だけでなくその患者さんの情報が必要になります。どういう環境で暮らしていたとか、体質だとか様々な情報がないと、有効な分析はできないと思います。
湯澤:バイオマーカーの開発においても栃木キャンサーセンターの試料は魅力的ではないかと思いますが、企業からのリクエストはありましたか。
尾澤:頒布希望のあった企業の中には、バイオマーカーの開発を目的とするものもありました。同じがんであっても、患者の属性や状態によりバイオマーカーが検出される場合やされない場合があると思います。バイオマーカー研究に限ったことではありませんが、「特定の患者の血液が欲しい」等のリクエストに柔軟に応えられることは、栃木キャンサーバイオバンクの強みだと考えています。稀な症例は難しいですが、当院に患者がいるのであれば、条件に合致する検体のみを頒布することができます。
今後の展望について
渡辺:デロイト トーマツ グループに期待することがあれば教えてください。
尾澤:デロイト トーマツさんは顔が広いので、医療業界のリレーションをうまく作っていく役割を担っていただけるとありがたい。やはり、病院も企業との繋がりがなければ難しい状況になってくると思います。ところが病院は、そういう繋がりが全くありません。そういうところをなんとかうまくつなげていって、製薬会社や検査会社と一緒にいろいろやっていきたいと思っています。そういった部分で是非ご協力をお願いしたいところです。
渡辺:それでは最後に、今後の予定や展望についてお聞かせください。
尾澤:今後、地方がんセンターはどうしていけばいいのだろうという課題があります。一つは、もちろん病院事業。がん患者の治療は一般病院でもかなりの部分をカバーできるため、がんセンターでなければならないがん診療とはどういうものなのかを明確にしていく必要があります。そのひとつの解が「希少がん」や「難治がん」であって、栃木県立がんセンターはそこを中心に診療をしていこうと考えています。
それともう一つ、やはり県立がんセンターなので、目標とするのは病院の患者さんの治療だけではなく、栃木県民の皆さまに対して最新のがん医療を提供するというビジョンも持っています。そのために、都道府県がん診療連携拠点病院として、他の拠点病院とどのような連携をしていけばいいだろうということも考えていかなければなりません。
がんは、治る人ばかりではなく、残念ながら治らない患者さんもいっぱいいらっしゃいます。その患者さんに対して、県全体としてどういう緩和ケアを提供した方がいいだろうかということも考える必要があります。地方がんセンターとしては、栃木県のがん患者さんに対してどのような事をどれだけ提供できるか、というところが大きいと思うので、そういうことにも力を注いでいきたいですね。
渡辺:この度はお忙しい中お時間を頂き、ありがとうございました。尾澤先生のおっしゃる通り病院と企業との連携関係は現在構築できておりませんが、企業としてもコネクションを作りたいという気持ちは非常に強いと考えています。また企業等によるバイオバンクの利用については、バイオバンク側が企業のニーズを把握し対応することだけではなく、企業側も効果的なバイオバンクの利用方法を学んでいく必要があると感じました。病院と製薬企業のリレーション構築や、協力可能な病院間の連携活動の促進等、我々もよりよい未来を創るためのお手伝いをさせて頂きたいと考えています。
PROFESSIONAL
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渡辺 典之
有限責任監査法人トーマツ Deloitte Tohmatsu HealthCare パートナー・公認会計士
医療・介護機関の経営戦略の立案、事業計画の策定、経営改善の実行、M&Aアドバイザリー、再生などの経営コンサルティング活動に従事。主な著書に『病院会計の実務』『病院経営実践ノウハウ』『原価計算が病院を変える』(共著:清文社)などがある。自治体病院の経営評価委員や外部での講演多数。