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第30回 企業価値とのれん(その10)

月刊誌『会計情報』2022年12月号

国際会計基準(IFRS)―つくり手の狙いと監査

前ᅠᅠ国際会計基準審議会(IASB)理事 鶯地 隆継

覆水盆に返らず

既に起きてしまったことは取り返しがつかないということを言い表す言葉として、日本には「覆水盆に返らず」という表現がある。英語にも似たような表現がある。「It’s no use crying over split milk.」という表現だ。どちらも取り返しがつかないという事態を表現するのに、水とミルクの違いがあるが、いずれもこぼれた液体を例えているところが面白い。液体は流動体であるので、盆やコップに入れておかなければ流出してしまう。流動性という言葉は会計でも使用される。流動性配列と呼ぶ表示方法があるように、キャッシュが最も流動性が高いものとされている。水もキャッシュもコップのようなしっかりしたもので保護しておかなければ、あっという間に流出してしまう。「覆水盆に返らず」とは流出したキャッシュは取り戻せないという意味にもなる。

流出したキャッシュは、経費となるか、資産となるか、負債の返済となるか、資本の減資となるか、そのいずれであるのかを判断して会計的処理がなされる。その判断は実際の取引に応じた会計基準に沿ってなされるが、判断が分かれる場合があるのが、経費となるか資産となるのかの判断である。

企業買収において買収の為に支払われたキャッシュは、取得原価の配分というプロセスにより振り分けられ、残余がのれんとなるが、のれんが経費なのか資産なのかについては、実は議論の分かれるところである。IFRS概念フレームワークの資産の定義は「過去の事象の結果として企業が支配している現在の経済的資源。経済的資源とは、経済的便益を生み出す潜在能力を有する権利である。」(第4.2項)となっている。のれんそのものは、取得原価の配分によって配分されなかった残余であるので、それ自体は実体を持たないものである。したがって、資産の定義を満たさないのではないかという議論があった。

この点について、IASBと米国のFASB(財務会計基準審議会)は、IFRS 第3号及びSFAS 第141号を開発するにあたって、のれんがそれぞれの概念フレームワークの定義に従って資産としての要件を満たすかどうかを検討している。まずFASBの概念書第6号の第172項は、将来の経済的便益を有する項目は、企業にとって価値のある他のものと交換されたり、企業にとって価値のある何かの創出に使用されたり負債を決済するために使用されたりすることにより、企業に役立つ能力を有していると説明している。FASBは、のれんは企業にとって価値のある他のものと交換することはできず、企業の負債の決済にも使用できないこと、他の資産との組合せでキャッシュ・フローを創出することはできるが、単独で将来の正味キャッシュ・フローを創出する能力はないことなどを指摘した上で、それにもかかわらず、のれんは一般的に将来の経済的便益を提供すると結論付けた。同様にIASBも、のれんは、その将来の経済的便益が企業に流入すると予測される資源をいうと結論を下した。したがって、IASBとFASBの両者は、コアのれんは概念上の資産の定義を満たすという結論を下している。そして、IASBが2018年に概念フレームワークを改訂するにあたり、上述の結論を再検討しなかった。よって、のれんは経費ではなく、資産であるというのが、現在のIFRSでの解釈である。のれんは覆水ではないのである。

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サンクコスト

多くのアナリスト達は、しかし、IASBの結論とは異なった結論を出している。この点は、以前の稿でも指摘したが、彼らは企業価値を分析するに当たって、のれんを資産であるとは考えていない。その理由は、のれんの中身が分からないからである。中身の分からないものを資産として計算にいれて企業価値を分析するのはリスクがあり過ぎる。したがって彼らは、企業の財務情報を分析するに当たって、純資産からのれんの金額を差し引いて分析している。もちろん全てのアナリストが同じ手法を取っている訳ではなく、また、のれんの金額を差し引くと言っても、必ずしも盲目的に全額を差し引くわけでもない。具体的な手法は各アナリストの考え方によって異なるし、対象となる企業の業種・業態によっても異なる。

ただし、共通して言えることは、アナリストはサンクコストを冷静に見ているということである。サンクコストは、既に投資した事業から撤退しても回収できないコストのことであるが、アナリストはそういったサンクコストに対して楽観的な見通しはせずに、厳しく扱う。のれんとして支払った金額はそのままの形では回収できないので、多くのアナリストはのれんをサンクコストと見做している。なぜなら、のれんそのものに実体がないからだ。もちろん、買収した企業がさらなる成長を実現して、その企業を第三者に売却する局面で、のれんの価値が取得時よりも大きくなる可能性もあるし、シナジーを活かして収益を拡大することもあるだろう。しかし、それはあくまでも不確定なプラスサイドであるので、いったんはサンクコストを差し引いた上で分析するのが普通である。

アナリストがこのような分析をしているということを考慮に入れると、会計基準においても、のれんを資産とは見做さないという考え方もある。すなわちのれんを取得時に即時償却してしまうという会計処理である。実際に英国においては一時そのような会計処理が採用されていた。この方法を採用すれば、のれんの減損テストを行う必要がなくなり、コストや複雑性を解消することができる。また、のれんの帳簿価額が回収可能ではないというリスクも解消し、取得のれんと自己創設のれんとの間の一貫性を達成することにも役立つことになる。

当然、IASBは即時償却という方法も選択肢の一つとして検討の対象としていた。なお即時償却の方法には、償却金額をその期のPLの純損益の一部として扱う方法と、PLを通さずに直接資本から控除する方法とがあるが、前者の方法はPLへの一時の影響が大きすぎるために、検討の対象となったのは主に後者の方法である。しかしIASBは最終的に、それは企業の財政状態の忠実な表現にならないという理由から、即時償却という選択肢を却下している。忠実な表現とならないという最も大きな要因は、即時償却した金額を資本に直接計上すれば、取得企業が所有者に分配を行ったものとして不適切に描写することになるからである。

ホットポテト

本稿第29回で紹介したように、日本のASBJ(企業会計基準委員会)は、2016年にEFRAG事務局と協力してのれん及び減損に関する定量的な調査を実施したリサーチ・ペーパー*1 の中で、米国の株価指数を構成する14%の会社、欧州の株価指数を構成する11%の会社において、のれんの金額が、その会社の純資産の100%を超えていたことを報告している。このような会社において、仮にのれんを資産として扱わないとすれば、純資産がマイナス、すなわち債務超過であるということを意味する。もちろん、上述したようにのれんは会計上資産であるので、これらの会社も債務超過ではない。しかしながら、アナリストのサンクコスト的な考えを適用すれば、実体としては債務超過なのではないか、あるいは、ちょっとしたことですぐに債務超過に転落するリスクをもった企業であるといえるだろう。

このようにのれんの扱いは非常に難しい。IAS第36号の減損テストによる減損処理についても構造的な欠陥があることが指摘されており、かといって日本のようにのれんを償却するとしても、償却年数の問題や、移行時の経過措置の問題*2 など、会計処理を変更するには多くのハードルがある。このように、のれんはホットポテトである。ホットポテトとは、あつあつのじゃがいもを想像していただければ分かるが、厄介な扱いにくい問題のことを指す言葉である。さらに言えば、解決法を見いだせないので、問題を互いに押し付け合うような状態になっていることを示す。

のれんは、それ自体は存在のないものである。なぜなら、それは元々の会計処理の相違から生じたもので、会計処理の相違の差額にすぎない。取得原価をベースに会計処理をしていた企業が、企業結合というイベントを契機に、異なる測定を強いられた結果生じた「余りもの」(残余)に過ぎない。したがって、のれんとは純粋に会計的に創造された会計的な架空の存在である。アナリストがそのような会計的な架空のものに興味を持たないのも無理はないと言える。

のれんを除いた資本合計の表示

このようなホットポテトの扱いについて、IASBは2020年3月に公開したディスカッション・ペーパーの中で、ユニークな提案をしている。それは、貸借対照表上にのれんを除いた資本合計の金額を独立金額として表示するという方法である。ここでいう独立金額とは、財務諸表の構成から独立した金額として表示するもので、資本の部の内訳表示として表示するものではない。ディスカッション・ペーパーの中では以下の2つの方法が紹介されている。
 

【図1】IFRS基準ディスカッション・ペーパー 企業結合―開示、のれん及び減損 付録から配列や金額を調整して作成

方法(1):独立金額を資本合計横に括弧書きで表示する方法
方法(2):独立金額を資本及び負債合計の下に表示する方法

これらの方法は、ある意味、会計的な手順を無視したかなり乱暴な方法である。というのも、現在のれんは資産として認識されているものなので、それを差し引いたものを財務諸表の中に無理に組み込むと、財務諸表の体系が崩れてしまう。したがって、のれんの金額は財務諸表の体系とは別の「独立した金額」となるのだが、そうなると、同じ財務諸表上に2つの独立した数字が並び立つことになり、どちらが正しいのかという話になる。

図1の数字を例にとると、この会社の資本合計は 800,000 であるが、のれんを除いた資本合計は -200,000 となる。図1の方法(2)のような形で表示すると、財務諸表の読者に対してメッセージとして伝わるのは、あたかも、会計上の資本合計は 800,000 と表示されているが、のれんを控除した本当の資本合計は -200,000であるというメッセージになりかねない。このようなメッセージの発信方法は財務諸表の読者を混乱させるだけであり、無責任な開示方法であるともいえる。

また、もともとのれんの残高は別途開示されており、さらに、別途進行している基本財務諸表プロジェクトでは、その公開草案「全般的な表示及び開示」において、のれんを貸借対照表上で独立の科目として表示することを要求すると提案されている。現行の開示であれば、のれんの金額に重要性がない場合は、かならずしものれんの金額が財務諸表に表示されるとは限らず、表示されていないケースも多い。したがって、のれんの金額を知りたいと思っても、財務諸表の注記を確認する必要があった。このため、財務諸表を見ただけでは、のれんを除いた資本合計を計算することができず、よけいな手間がかかった。しかし、今後のれんが財務諸表上に独立の科目として表示されるとなると、財務諸表上にその情報があるので、あとは引き算をするだけであり、その引き算をした数字を「独立した金額」として表示することの追加的な意味合いは少ない。IFRSは一定の会計的知識を備え、独自に財務分析を行えるような読者が利用することを前提に作成されることになっているので、そのような利用者に対して、わざわざ引き算をした数値を示す必要性もない。

このようなことから、この提案に関しては、IASBの理事の間でも必ずしも評判は良くなかった。しかし、財務諸表を利用するのは、必ずしもIASBが想定しているプロフェッショナルばかりとは限らない。マスコミなども含めたごく一般の人々が、企業が開示する財務諸表から企業の財政状態を知る。そのため、のれんを除いた資本合計を実際の資本合計のすぐ近くに目立つような形で表示することは、それなりのインパクトがあると筆者は思う。IASBがこの表示方法についてどのような結論を出すのかが楽しみである。

いずれにせよ、これまでののれんに関する様々な議論から、のれんはどのように扱ってもそれで全ての市場関係者が完全に納得できるということはあり得ないと思われる。それを踏まえてIASBは開示の充実を提案しているが、やはりのれんは扱い方に依って、純損益への影響が大きいので、認識と測定のあり方については議論が続くことになるのだろう。

以 上

 

*1 https://www.asb.or.jp/jp/ifrs/discussion/2016-1003.html
*2 仮にのれん償却を再導入した場合、これまで償却せずに積みあがったのれんをどのように扱うかの問題。

本記事に関する留意事項

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