Posted: 08 Dec. 2023 5 min. read

両利き人財でCSV経営を推進する、キリンの人的資本経営

日本における「CSV(共通価値の創造)経営」の先駆けであるキリンホールディングス(HD)はいま、「専門性」と「多様性」を兼ね備える両利き人財によってCSV経営をさらに力強く推し進めようとしている。また、デロイト トーマツ コンサルティング(DTC)も経済価値と社会価値を同時に追求する「DTC Value経営」(*)に舵を切っている。キリンHDの人事総務戦略を担当する坪井純子氏と、人的資本経営に関して多くの企業を支援してきたDTCの古澤哲也、上林俊介が、「人的資本経営の高度化」をテーマに、あるべき人財戦略を語る。

※当記事はHarvard Business Review(株式会社ダイヤモンド社)にて、2023年11月8日に公開された記事を、掲載元の許諾を得て、一部改訂して転載しています。

サマリー:大手企業を対象に人的資本の開示が義務化されるなど、人的資本経営が大きなテーマになっている。単なる開示だけに終わらない、高度な人的資本経営を実現していくためには何が必要なのだろうか。

「専門性」と「多様性」の両利きを追求する人財戦略

古澤 キリングループの人財戦略の特徴として、「専門性」と「多様性」がキーワードになっていることが注目されます。一見すると背反する要素の組み合わせともいえる専門性と多様性を、人的資本経営の中で同時に追求されているのはなぜですか。

坪井 人的資本経営の要諦は、経営戦略と人財戦略をいかにリンクさせるかということだと思いますが、持続的な価値創造と企業価値向上のためにどのような人財が求められるのかという問いが出発点になっています。

これだけ不確実性が高く、変化が速い時代ですから将来の経営環境は誰も正確に予測できませんし、10年先の経営戦略を決め打ちするのはリスクが大きすぎます。キリングループはビールを祖業として、医薬品やヘルスサイエンスなどに事業領域を広げてきましたが、10年後の事業ポートフォリオは大きく変わっている可能性があります。一方で、人が育つには時間がかかります。10年後にも通用する人財戦略は何かを突き詰めていった結果、浮かび上がってきたキーワードが専門性と多様性です。

つまり、社会で通用する強みとして専門性の軸を持っていると同時に、経営環境の変化に対応できる多様な視点を持った人財を育成するということです。

古澤 なるほど、根底には環境変化への適応力を高めるという狙いがあるわけですね。生物の世界でも、遺伝情報の中に独自性と多様性を兼ね備えているほうが、変化への適応能力が高いといわれますから、バイオテクノロジーを得意分野とするキリングループらしい考え方だと思いました。

坪井 キリングループは40年ほど前に医薬品に参入しましたが、発酵バイオテクノロジーという基盤技術はビールと共通しています。アンカーとなる専門的な強みがあるから、選択肢が広がる。選択肢を広げるためには、多様な視点が必要ということです。

古澤 キャリア開発では、専門性が先か、多様性が先かが議論になることがありますが、キリングループの場合は、アンカーとなる専門性が先にあって、そのうえで多様な視点を持つ、多様な経験を積むという発想ですね。

坪井 その通りです。私の専門はマーケティングですが、広報や商業施設の経営に携わった時に、マーケティングの考え方や専門性を活かしながら仕事をしていました。異なるアンカーを持つ人がそのポジションに就けば、違う強みが発揮されるはずです。専門性を深く掘り下げることで、新たな広がりが生まれます。

古澤 たしかにそうですね。我々コンサルタントも何の専門家なのかを聞かれることがよくあります。自分が提供できる価値を明確に伝えないと、お互いの信頼の基盤ができません。相手は何ができるかを理解すると、コラボレーションの方向性を見つけやすいですし、逆にそれができないと協力していくのが難しいです。

坪井 日本ではゼネラリスト的な人財育成が一般的で、海外ではジョブ型の専門性を重視する傾向にありますが、キリングループは専門性と多様性を組み合わせるハイブリッドなアプローチを取っています。ここでいう多様性には、個人の内なる多様な視点や経験と、チームとしての人財の多様性の両方の意味があり、私たちはその両方を大切にしています。

坪井純子
Junko Tsuboi
キリンホールディングス
取締役常務執行役員

キャリアコース別の新卒採用にトライ

上林 専門性と多様性を兼ね備えたハイブリッドな人財は、ハードルが高いと感じる人もいそうですが、社内ではどう受け止められていますか。

坪井 世代やキャリア観によって違うでしょうし、さまざまな受け止め方があると思います。技術系の職種は従来から専門色が強いですし、事務系でも法務や財務などはそういう面があります。一方、当初はゼネラリスト的な採用で、所属する事業や機能の経験を通じて結果として専門性を培ってきたメンバーもいます。そこに機能軸といいますか、自分のアンカーとなる強み、ほかの事業に移っても発揮できる強みを加え、自律的にキャリアを描いていけるようにする。いまはその移行期間です。

たとえば、キリンHDの来春(2024年)入社の新卒社員から営業系、マーケティング系、デジタル系といったコース別採用に初めてトライしました。現在の社員は技術系、事務系といった分類で入社していましたので、これから自律的なキャリア形成、主体的なジョブデザインを本格的に進めていくことになります。

古澤 コース別採用を行うに当たって、学生さんから「まだ決められません」「入社してから決めたいです」といった声はありませんでしたか。

坪井 ありました。一方で、どこに配属され、どんな仕事をさせられるかわからない「配属ガチャ」に不安、不満を持つ学生さんも少なくありません。ですから、コース別に採用したうえで、たとえば状況によっては本人の希望でコースを変えられるよう、柔軟性を持たせていくことも必要だと考えています。

どのコースに決めればいいのかわからないという学生さんについては、採用エントリーしてから最終決定までに若手従業員との対話やインターンシップなどの機会もありますので、そうした場でいろいろな声を聞きながら決めるという人が多かったですね。

古澤 日本と欧米の採用を比較した場合、大きな違いの一つはオンボーディング(入社後の定着や活躍を組織的にサポートするプログラム)の充実度です。日本では入社直後に短期間の集合研修を行った後は、配属先に任せてOJTを行うのが一般的ですが、人財の流動性が高い欧米では、入社後の数カ月でその人が定着するかどうかがほぼ決まってしまうといわれています。

ですから、オンボーディングの段階でいろいろなサポートプログラムがあって対話の機会をつくったり、頻繁にアンケートを行って離職の予兆がある人がいたら所属部門にフィードバックしてフォローさせたりといったプロセスができ上がっています。ピープルアナリティクス(人事に関するデータ分析・活用)が普及してきたことで、離職の予兆がかなり正確にとらえられるようになりました。

坪井 当社でもキャリア採用が増えていて、年間採用人数の4割ほどがキャリア採用です。お話にある通り、キャリア採用の人たちのオンボーディングプログラムはもっと充実させる必要があると考えています。

キャリア形成の基本は「CSV」と「人間性の尊重」

古澤 先ほど、自律的なキャリア形成を進めるというお話がありましたが、社員の自律化はいろいろな会社でキーワードになっています。少し前までは、ベテラン社員の自律化に課題感を持つ企業が多かったのですが、我々が毎年行っている調査では、30代を中心とする日本のミレニアル世代の自律性が低下しているという結果が出ています。

若い頃には自分のキャリア形成に意欲的な人も、希望通りに異動できないことが続くと意欲が低下します。また、結婚して子どもができると自己投資にかけられる時間もお金も限られて、キャリアの選択肢が徐々に狭まっていくこともあります。そういった理由で、だんだん元気がなくなってしまう。日本を元気にするためにも、自律的なキャリア形成ができる環境整備は、社会全体の問題だと思います。

古澤哲也
Tetsuya Furusawa
デロイト トーマツ コンサルティング
執行役員
 

坪井 人生観や仕事観は人それぞれなので一律の解決策はありませんが、当社としての基本的な考え方は、やはりCSV(共通価値の創造)です。私たちがCSVを経営の根幹に据えてから10年ほどになりますが、CSVとは簡単に言えば会社と社会がウイン・ウインの関係を築くことです。そして、キリンにはもともと「人間性の尊重」という人事の基本理念があります。それは、「従業員と会社はイコールパートナー」という考えです。

古澤 まさに人的資本経営そのものですね。

坪井 人的資本経営という言葉が世の中に出てくるより前からそれを基本にしていました。従業員と会社がウイン・ウインで、会社と社会がウイン-ウインならば、個人と会社と社会はウイン・ウイン・ウインになります。従業員が仕事を通じて成し遂げたいことが会社の価値になって、それが社会との共通価値になる。それを考えていくのが自律的なキャリア形成だと思っています。

古澤 なるほど。自分がウインの状態、幸せな状態になるためにはどうしたらいいかという問いかけが一つのヒントになりそうです。

坪井 私たちの世代は、受け身で異動するのが当たり前でしたが、これからは能動的にキャリアを描く時代です。当社では、従業員の「ウィル」(Will:仕事を通じて実現したいこと)を起点に「キャリアコミュニケーションシート」をつくって、直属のリーダーが面談しています。

ウィルを異動願いと勘違いする人もいますが、私たちが知りたいのは仕事を通じて会社や社会に対してどんな価値を生み出したいかということで、個人としてのパーパスに近いものです。それがクリアになっていない人もいるので、上司との面談や少人数でのワークショップなどを通じて言語化していくことが大事だと思います。

古澤 臨床心理学でも、言語化して、周りからフィードバックをもらうことで内省に切り替えるという手法があります。言語化するのは大事ですよね。

人的資本経営のストーリーをもとに投資家と対話

上林 御社の取り組みの一つひとつが、しっかりと意味付けされていることがよくわかりました。我々は人的資本経営を実践するうえで重要なのは、センスメイキング(腹落ち)だと考えています。会社がどこに向かっていて、そのために何に取り組んでいるのか、そうした一つひとつの事象に納得できる意味付けを行って、従業員が自律的に動けるようにしていく。それを先頭に立って進めるのがCHRO(最高人事責任者)の役割ですが、坪井さんご自身はセンスメイキングの力をどうやって培われたのですか。

上林俊介
Shunsuke Kambayashi
デロイト トーマツ コンサルティング
執行役員

 

坪井 先ほど申し上げたように、私自身はマーケティングをアンカーにしながら、いろいろな仕事をしてきました。人事総務戦略の担当役員になってからも、自分の強みをいまの仕事の中でどうアウフヘーベン(止揚)できるかを考えてきました。

マーケティングの仕事では、お客様のインサイトを深掘りして、それに応える共感のコミュニケーションをしていくわけです。お客様を従業員に置き換えれば、多様な価値観を持っている従業員の、どういう価値観に対してどう共感を得られるコミュニケーションをしていくか。人事部門は私が着任する前からそういう問題意識を持っていて、従業員との対話の機会を増やしたりしていたので、私はそれを後押ししています。

また、人事部門だけではありませんが、人事制度をつくったり、人事異動や採用の準備をしたりするなど、具体的なタスクに強くコミットして携わっているからこそ、自分の仕事が会社や社会にとってどういうバリューを生んでいるのか必ずしも意識していない時もあります。そこに意味付けをして、みんなを後押しするのも私の役割の一つだと思っています。

上林 本日のテーマである人的資本経営の高度化を進めるに当たって、坪井さんが特に重視されているポイントは何ですか。

坪井 一つは、DE&I(多様性、公平性、包摂性)です。従業員一人ひとりが内なる多様性を発揮できる環境を整えるとともに、組織の中の多様な人財が互いを尊重し合って、それぞれの可能性を存分に発揮できるようにしていくこと。それが、イノベーションの推進力になります。

もう一つは、人的資本経営のストーリーです。人的資本経営にはキャリア形成や組織風土づくりだけでなく、健康経営や人権尊重などさまざまな要素が含まれます。その一つひとつが最終的にキリンらしいユニークな価値創造にどうつながっていくか、そのストーリーが大事です。

それが、人的資本の開示にそのままつながります。どういうストーリーで、どんな指標を定量的に測って、PDCAを回していくのか。それを開示して、投資家をはじめとするステークホルダーと対話していくことが重要だと思います。

上林 ご承知の通り2023年3月期から有価証券報告書で人的資本に関する情報開示が義務化されましたが、単に情報を並べるだけでなく、おっしゃるように価値創造につながるストーリーを組み立て、それをステークホルダーとの対話できちんと語り、センスメイキングしていくことが本来の趣旨です。

人は入れ替わってもキリンらしいカルチャーを残す

上林 人的資本経営の高度化に向けた今後の課題としては、何が挙げられますか。

坪井 最終的には企業カルチャーだと思っています。人が入れ替わっても、カルチャーが連綿と受け継がれれば、企業は生き残っていくはずです。人の細胞も日々入れ替わっていますが、古い細胞のDNAが新しい細胞にコピーされて、生命は維持されています。そのDNAに当たるのがカルチャーで、キリンらしいチャレンジ精神やどんな場面でも創意工夫するといったカルチャーを受け継いでいけば、進化しながら生き残っていけると思います。

上林 そのためにCHROとしては何に力を入れますか。

坪井 やはり従業員との対話ですね。ディスクローズ(情報開示)は一方通行で、コミュニケーションは双方向という違いがあると思っているのですが、対話によって受けるフィードバックは、厳しい意見も含めて、会社が進化していくためのギフトだと受け止めています。

それは投資家に対しても同じことで、ディスクローズして終わりではなく、投資家目線でフィードバックをもらうことで足りないものは何かがわかったり、新たな気づきを得られたりします。進化には欠かせないプロセスだと思いますね。まだまだ端緒についたところですが。

古澤 キリンらしい価値創造ストーリーやカルチャーを大事にしながら、ステークホルダーと対話し、フィードバックを進化の糧にしていく。そういったところに、マーケターである強みを、CHROの立場でアウフヘーベンされていると感じました。キリングループが目指す専門性と多様性の両利き人財を、坪井さんご自身が体現されている気がします。

 

*DTC Value経営については、こちら

 

坪井純子
キリンホールディングス 取締役常務執行役員

1985年キリンビール入社。キリンビバレッジ広報部長、横浜赤レンガ代表取締役社長などを経て、2012年キリンホールディングス(HD)CSR推進部長兼コーポレートコミュニケーション部長、2014年キリン執行役員CSV本部ブランド戦略部長、2019年キリンHD常務執行役員ブランド戦略部長、2023年3月より取締役常務執行役員として人事総務戦略を担当。ファンケル社外取締役を兼務。

プロフェッショナル

古澤 哲也/Tetsuya Furusawa

古澤 哲也/Tetsuya Furusawa

デロイト トーマツ コンサルティング 執行役員

組織変革(Organization Transformation) 組織・人材コンサルティング歴15年以上。国内外の企業のさまざまな経営課題を組織・人事面から解決する業務に従事。特に、経営・事業戦略をグローバルに推進するためのグローバル人事戦略の立案、各種人事基盤の設計から組織風土改革までをトータルに支援する経験が豊富。主な著書に、『MOTリーダー育成法』(中央経済社)、『変革を先取りする技術経営』(共著・企業研究会)等がある。   関連サービス ・ヒューマンキャピタル >> オンラインフォームよりお問い合わせ

上林 俊介/Shunsuke Kambayashi

上林 俊介/Shunsuke Kambayashi

デロイト トーマツ コンサルティング 執行役員

Human Capital Division  Organization Transformationユニット SIer、業務系コンサルティングファーム、組織・人事系コンサルティングファームを経て現職。DTCのM&A・再編人事サービスリーダー。 国内外の企業に対し、M&A・再編局面で、組織・人事の構想・戦略策定、計画立案、DD、取引実行、PMIまでをトータルに支援。 近年は、デジタル機能の強化・集約を目的とした組織再編の計画立案や、それを起点とした組織・人材変革、制度設計も手掛ける。 企業価値の向上に向けては、人的資本経営の実装や、人的投資の強化に向けたDD、人的投資戦略の立案なども総合的にサポートする。   関連サービス ・ヒューマンキャピタル(ナレッジ・サービス一覧はこちら)