最新動向/市場予測

賃上げに必要なもの:「生産性の上昇」ではない視点の重要性

リスクインテリジェンス メールマガジン vol.90

マクロ経済の動向(トレンド&トピックス)

有限責任監査法人トーマツ
リスク管理戦略センター
マネジャー
市川 雄介
 

当面の日本経済にとって最大の注目点は、今年の春闘で賃上げ率が上向くかどうかだろう。相対的にコロナ禍からの回復が遅れたこともあって、日本経済は内需を中心とした回復が続くと見込まれるが、賃金が上昇しなければ高インフレによって実質所得が悪化し、景気は腰折れする可能性が高い。また、日本銀行の金融政策の先行きを占う上でも、賃上げの勢いが強まるかどうかは決定的に重要である。

近年は政治サイドが積極的な賃上げを企業に促しながら、結局は冴えない結果で終わることが多かったが、今年は経営者側からも賃上げ率を上向かせることについて前向きな発言が多く報じられている。その背景にあるのは、言うまでもなく40年ぶりの上昇率を記録したインフレである。実際、過去50年間を振り返ると、高インフレ期には賃金改定にあたって物価動向を重視する企業が増える傾向が見て取れる(図表1)。今般のインフレ率の上昇を踏まえれば、少なくとも近年に比べて賃上げ率が上向くことが期待できそうだ。

図表1   インフレ率が賃上げ決定に与える影響

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他方で、人件費が増大するばかりでは企業収益が圧迫されるため、インフレ率の高まりだけで賃上げを続けることは難しい。そこで、持続的な賃金上昇のためには生産性(一人当たり、もしくは時間あたりの付加価値)の上昇が不可欠である、という議論に行き着く。確かに、名目賃金と労働生産性(いずれも時間当たり)は長期的にはほぼ一対一の関係にあることが確認できる(図表2)。理論的にも、標準的な生産関数(と競争的な労働市場)を想定すれば、企業の利潤最大化行動の結果として賃金は労働生産性に等しくなる。こうして、賃上げの持続のためには生産性を上向かせるための企業努力や政策支援が求められることになる。

図表2  名目賃金と生産性(時間当たり

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こうした議論はごく一般的だが、丁寧に考えると、二つの盲点があるように思われる。一つは、マクロ経済全体と個々の企業レベルの話が単純な相似形ではない点である。例えば、IT投資による効率化やデジタル・トランスフォーメーション(DX)を進めることで、個々の企業の生産性は確かに上昇する可能性が高い。一方で、効率化によって不要となる作業を供給している業種などはマイナスの影響を受けることになる。マクロ経済の生産性は、産業構造の変化も含めた様々なダイナミズムによって影響を受けるものであり、個々の企業の生産性を上昇させる施策がそのまま経済全体の生産性を引き上げるとは限らない。二点目は、「生産性の上昇」が必ずしも経済の効率化や革新を示すわけではないということだ。過去40年間で最もマクロの労働生産性(実質)の伸びが高かった時期は80年代後半のバブル景気の頃であるが(図表3)、バブル期の経済や社会が革新的であったという印象を持つ人はそれほど多くないだろう。当時の生産性上昇率が高かったのは、過度に楽観的な見通しという危うさを抱えながらも、各種の投資・消費需要が大きく拡大したことでGDPが増加し、結果として労働生産性が高まったという面が大きいと考えられる。

図表3  実質生産性上昇率の推移

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このように考えると、マクロの生産性は企業や消費者の行動の結果として計算されるものであって、何らかの政策によって引き上げられるとは限らない、という捉え方もできよう。生産性が結果として決まるものであれば、それを起点としてマクロの賃金上昇を議論しても政策的な含意は生じにくい。

それでは、賃上げを決定する要因は何だろうか。企業の意思決定は常にフォワード・ルッキングであり、特に一度賃上げをしてしまえば恒常的に人件費が増大することになるため、企業としては安易に実施できるわけではない。その意味で、企業の先行きへの期待(期待成長率)こそが、賃上げ率を決定づける重要な要因であると考えられる。実際、上場企業を中心とする企業による「今後5年間の業界需要の実質成長率見通し」を期待成長率の変数とみなすと、賃上げ率の推移とほぼ重なることがわかる(図表4)。実態を伴わなかったがために一時的な動きに止まったが、バブル期には楽観論の広がりが期待成長率の上振れとして表れ、それに連動して賃上げ率も上振れした。一方、アベノミクスが大半の期間を占める2010年代は、期待成長率はほとんど持ち直さず低迷が続いた。企業が先々への自信を持てない中で賃上げ率を上方シフトさせることは、至難の業と言える。

図表4  期待成長率と賃上げ率

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もちろん、政策目標が生産性の引き上げから期待成長率の引き上げに変わったところで、「これさえやれば良い」という状態になるわけではない。しかし、基本的には、市場や売上の拡大が見込まれるような環境を整えることが最も重要になってくるだろう。例えば、小売業がIT投資の拡大によって精算業務や在庫管理等を効率化できたとしても、それだけでは売上が増えていくという期待が高まることはない。生産性上昇を目的とする合理化投資優遇などの様々な補助金や支援策は、必ずしも想定通りの生産性向上に寄与しない可能性がある。他方、財政の一段の悪化が家計の将来不安を高め、財布の紐を引き締める可能性すら想定されるところだ。

賃上げを続けるために、経済全体の生産性が上昇していく必要があるのは間違いないが、生産性自体を政策目標とすることは、かえって非効率さを生む可能性がある。賃上げ機運が高まっている今こそ、生産性という合言葉から一度離れ、需要を拡大させ将来の成長期待を高めるという原点に立ち返る時ではないだろうか。

執筆者

市川 雄介/Yusuke Ichikawa
有限責任監査法人トーマツ リスク管理戦略センター マネジャー

2018年より、リスク管理戦略センターにて各国マクロ経済・政治情勢に関するストレス関連情報の提供を担当。以前は銀行系シンクタンクにて、マクロ経済の分析・予測、不動産セクター等の構造分析に従事。幅広いテーマのレポート執筆、予兆管理支援やリスクシナリオの作成、企業への経済見通し提供などに携わったほか、対外講演やメディア対応も数多く経験。英ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスにて修士号取得(経済学)。

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