付加価値を高める労働移動の在り方 ブックマークが追加されました
持続的な賃上げには「一人当たり付加価値」の成長が不可欠
日本経済で賃上げの機運が高まっています。連合の集計によれば24年度の平均賃上げ率は5.2%と、30年ぶりの高い賃上げとなる見込みです。こうした賃上げの動きが中小企業にも波及するかが懸念されていましたが、中小企業の賃上げ率も4.7%と高い水準となることが見込まれています。こうした力強い賃上げの動きによって、24年後半からは実質賃金の伸びのプラス転化が見込める状況になり、「賃金と物価の好循環」実現の確度が高まっています。
ただし、こうした足許の高い賃上げ率は必ずしも企業の将来期待が高まったからではなく、物価高対策という側面が強い点には注意が必要です。その意味で24年度の春闘賃上げ率はやや「出来すぎ」であるともみることもできます(「力強い賃上げは継続するか:2024年春闘の評価」)。では、来年以降もこうした高い賃上げ率が継続するためにはなにが必要でしょうか。
これを考えるためには賃金の決定要因に目を向ける必要があります。一人当たり賃金は労働分配率×一人当たり付加価値で定義されますので、賃金を高めるためには、経済活動で生み出された利益をより多く家計に分配する(労働分配率を高める)か、個人が生み出す経済的な付加価値を高めていく(一人当たり付加価値の上昇)ことが求められます。
日本の一人当たり賃金は過去30年間成長しておらず、国際的にも地位が低下してきています(図表1)。日本の労働分配率は他の主要国(米独仏英)と比較して低いわけではないので、その原因は「一人当たりの付加価値」が低いことにあるといえます(図表2、3)。したがって、今後も強い賃上げの動きが継続するかは、この「一人当たり付加価値」を高めることができるかどうかがカギを握っています。
それでは、一人当たり付加価値を高めるにはどうすればよいでしょうか。付加価値はマクロレベルではGDP(国内総生産)と概念的に対応しています。つまり、日本経済の成長なくして賃金が持続的に上昇することはないのです。
一国のGDPはその国に存在する産業が生み出したGDPを合計したものです。したがって、日本経済を成長させるには産業が生み出す付加価値を高めていくことが重要となります。こうした産業政策にはさまざまな論点が考えられますが、以下では人口減少下で付加価値を高めるために求められる労働移動の在り方について議論します。
まずは議論に必要なフレームワークを導入します。日本経済が架空のX産業とY産業という2つの産業によって成り立っているとしましょう。GDPは就業者が働いた時間の合計(労働投入量)と生産性(労働生産性)の掛け算によって決まりますので、横軸を労働投入量、縦軸を労働生産性にとったグラフでGDPを表現すると図表4のようになります。図表4の青色と緑色の面積が各産業の生み出した産業別のGDPです。この2つの面積の合計が日本経済のGDPとなります。
このフレームワークでは産業の成長は面積の増加で定義されますので、付加価値を高める産業の成長戦略の方向性は2つです。1つは産業に従事する人の数を増やし、グラフ上の産業のポジションを右にシフトさせる「労働力増加型」の成長です。この成長タイプは産業の労働生産性が高いほど労働力の増加により産業が生み出す付加価値が高まる(=面積が増える)ので、上記の例ではY産業に適しています。第2に労働生産性が高まることでグラフ上の産業のポジションが上にシフトする「生産性向上型」の成長です。この成長タイプは、産業に従事する労働者の数が多いほど生産性の改善により生み出される付加価値が大きくなる(=面積が増える)ため、上記の例ではX産業に適しているといえます。
次にこのフレームワークから付加価値を高める労働移動の在り方を考えます。図表5は日本の産業別の就業者数と労働生産性をグラフにプロットしたものです。このグラフをいくつかの基準を用いて4つの領域に切り分けると、右上の雇用吸収力が高く付加価値の高い領域には産業が位置しておらず、空白地帯になっていることがわかります。経済成長を促進するという観点からは、この空白地帯を目掛けて成長していくような戦略がすべての産業に求められているといえます。しかし、今後は人口が減少していくため、すべての産業が雇用者数を増やすこと(右方向へのシフト)はできません。人口減少社会ではこうした制約のもと、限られた労働資源を効率的に配分する仕組みを設計する必要があります。
上述したようにこのフレームワークでは産業が生み出す付加価値の大きさは面積で示されますので、日本経済への影響が大きいのは右下(緑)と左上(青)の産業群ということになります。
右下の緑の領域には「卸・小売」や「運輸・郵便」、「建設業」など日本の雇用の受け皿になっている産業が属しています。上述したようにこうした産業群には「生産性向上型」の成長が求められます。この産業群の労働移動の方向性としては、デジタル・トランスフォーメーション(DX)の推進やAIの導入などで既存のタスクを省力化/自動化し、限られた労働者をより多くの付加価値を生み出すタスクに割り当てる「産業内での労働移動」が求められているといえます。
こうした産業群の生産性が十分に高まって余剰人員が生まれれば、ほかの産業群への労働移転も選択肢として視野に入ります。労働移転先の第1候補は左上の青の領域に属している産業群です。ここには「化学」や「情報・通信機器」、「電子部品デバイス」など、日本が技術面で強みを持つ産業が属しており、今後はDXやグリーン・トランスフォーメーション(GX)の需要増などを追い風にさらなる成長が見込まれている産業群です。こうした生産性が高い成長産業群には、雇用者数を増やすことで右の領域に向かっていくような「産業間の労働移動」が求められます。
このように、人口減少社会では産業群の特性により求められる労働移動の在り方は異なります。人口減少下で経済全体の付加価値を高めるためには、労働移動を「どこの産業/企業に人を張り付けるか」という「人ベースの視点」だけではなく、「どのタスクに人を割り当てるべきか」という「タスクベースの視点」でも考える必要があります。労働移動の枠組みを設計する上では「労働」の概念を広く捉え直すことが求められているといえます。
より詳細な分析については、書籍『価値循環の成長戦略 人口減少下に“個が輝く”日本の未来図』(デロイト トーマツ グループ著)の第5章をご参照ください。
執筆者
デロイト トーマツ リスクアドバイザリー 合同会社
マネジャー
梶田 脩斗/ Kajita Yuto
リスク管理戦略センターのマネージングディレクターとして、ストレス関連情報提供、マクロ経済シナリオ、国際金融規制、リスクアペタイトフレームワーク関連アドバイザリーなどを広く提供する。 2011年から約6年半、大手銀行持株会社のリスク統括部署で総合リスク管理、RAF構築、国際金融規制戦略を担当、バーゼルIII規制見直しに関する当局協議や社内管理体制構築やシステム開発を推進。2004年から約6年間は、同銀行ニューヨーク駐在チーフエコノミストとして、米国経済調査予測、レポート執筆、講演等に従事。以前は国債・CPチーフトレーダー、ロンドン支店ディーリング企画業務等、マーケット業務に10年以上携わった。